2015年8月9日日曜日

模範的な信者の群れ

模範的な信者の群れ
2015年8月9日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック

第1テサロニケ
2:1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。
2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
2:3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2:5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
2:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。
2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。
2:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、
2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。
2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
2:15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。
2:16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。
2:17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。
2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

このテサロニケ第1の手紙はパウロが初めて書いた手紙です。もちろん、この手紙を書きながら聖書として残ると夢にも思ったことはなかったのではないでしょうか。いつ書かれたかと言うとおそらく(西暦)50年でした。書いたところはコリントだったのです。

パウロは3つの安息日で、テサロニケで福音を述べ伝え、すなわち、イエス様を紹介した結果、いろいろな人々が導かれ救われたのです。パウロは彼らのことを考えたとき、うれしくなったのです。結局、それは自分の努力の結果よりも、主が憐れんでくださった、主は生きておられるという結果であるとパウロは、心から感謝せざるを得なかったのです。

このテサロニケ第1の手紙の第1章においては、生き生きとした教会について書き記されています。そして生き生きとした証しをしているときに、その教会は本当の意味で生き生きとした、主に用いられる器になったことが分かります。

二、三週間のあいだに、十字架につけられ、よみがえられたイエス様の福音によっていろいろな人々が導かれたのです。結局、聞く耳を持っていたからです。

どうして聞く耳を持っていたかと言うと、いろいろなことで悩んだから。どうしたらいいか、分からなかったからです。十字架にかけられ、復活なさったイエス様のことをきいた時、必ず希望が湧いてきた。ああ、そうか!そうしたら、心配しなくてもいい。このイエス様にゆだねれば、必ず、安心して前向きな生活を送ることができると、思うようになったに違いない。

その時は、ユダヤ人も異邦人も、考えられないことですけど、ひとつになったのです。どうしてひとつになったかといいますと、同じ御霊、聖霊を受けたからです。

生き生きとした教会はまさに生ける神の奇蹟のみわざによって造られたものです。本当に生き生きとした教会は決して形式的な組織ではなく、まことの力、すなわち内住の聖霊による一致を持っているのです。教会は共通の課題とひとつの目標を持っているのです。

どのようにしてこのような生き生きとしたテサロニケの教会が発達し、どのようにしてパウロが大いなる働きを成すことができたかという疑問に対して、今、読んでいただきました2章ははっきりとした答えを与えています。2章に対してはいかなる表題をつけることができるのでしょうか。忠実なるしもべにとって、主の再臨は力づけ、勇気を与える望みを意味していると言うことができるのではないかと思います。

もっと簡単に、『パウロの祝福に満たされた奉仕』と言う題名も付けることもできますし、さらに簡単に言うと、『むなしくなかった』とつけることができます。ひとりの人間の生涯について『むなしくなかった』と言うことができれば、本当に幸いではないでしょうか。

軽井沢にはいくつかの墓地がありますが、その中には次のような言葉が刻まれた墓があります。『われら夫婦は、ともに軽井沢を心から愛する』と書いてあります。結局、このような言葉は、まだ、生きている人々に対して、言おうとしたものなのではないでしょうか。したがって、これはまことに虚しかった人生としか言えないのではないでしょうか。

けれども、パウロの奉仕の生涯について見ると、それは、まさしく『むなしくなかった』と言えます。今、読んでもらいました箇所を二つに分けることができるでしょう。1節から12節の間に、パウロは自分の働きと同労者について述べています。ここでパウロは、何回も何回も、私たち、私たちということばを使っています。

そして、13節から最後まで、20節まで、分かりますけど、ここで、パウロは働きの結果や、テサロニケの集会や迫害する者について語っています。そしてこの場合に、いつも、あなたがた、あなたがた、あるいは、彼らということばを用いています。

大切な質問は、パウロ、および、同労者たちの生涯の目標はいったい何だったでしょうか。彼らの人生の目的は何であったのでありましょうか。彼らの人生の目標であり、もっとも大きな影響を及ぼしたものは、まさに福音そのものです。ですから福音ということばが何回も繰り返して出てくるのですね。2節、4節、8節、9節に福音ということばが出てきます。

福音を通して救うことのできる主の力を体験した者は、大いに喜ぶ、そして、この福音こそが我々にゆだねられているとパウロ、また同労者たちはいうようになったのです。福音を述べ伝える、すなわち、イエス様を紹介することが、あらゆる信者に与えられた最高の特権であり、使命です。

私たちは罪の世界に住んでいます。我々の周囲は荒れ果てたように見えます。我々の周囲にいる人たちは荒野で水を求めている瀕死の人に似ています。私たちは、どこにいようと、そういう人々と出会います。

けど、信じるものとして、私たちはどこに泉があり、どこに救いがあるかを知っています。それですから、私たちは、水を求めている瀕死の重病人を、泉のところに導いて行く責任と義務とを持っています。福音によって、パウロと同労者の信仰と確信は、弱り果てることなく、反対に力づけられ、水を求めて迷っている人々にいのちの泉を、すなわち救いの井戸を力強く宣べ伝えたのです。

彼らは自分自身の思い、また自分自身の考えを宣べ伝えたのではなく、ただ、イエス様だけを紹介したのです。自分たちの誉れではなく、イエス様の誉れだけが彼らにとって大切であり、すべてでした。

次の質問は、パウロと同労者がいかに働いたのかということです。この2章においては、何々ではなく、何々であるという表現が何回も出てくることに注意したいと思います。たとえば、むだではなかった。だましごとでもない。人間に喜ばれるためではない。へつらいのことばを用いたこともない。云々とあります。そうではなく、主に喜ばれるように福音を語るのである。自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願った、と8節に書いてあります。

パウロと同労者たちの奉仕がいかなる性質のものだったでしょうか、という問いに対する答えは、2章ではっきり与えられています。1節を見ると、彼らは彼らの働きがむだではなく、実りのないものではなかったことがわかります。

2節を見ると、激しい苦闘にかかわらず、神に勇気を与えられて、力強く神の福音を語ったことがわかります。3節を見ると、彼らの宣教が決してだましごとではなく、公明正大なものであったこともわかります。4節から6節を見ると、彼らの奉仕の目的が、ただ主の栄光のためであったことがわかります。自分のために、自分の力で、自分中心に働く者は、まことにあわれむべき信者であります。

7節から9節までを見ると、彼らが優しくふるまい、また、慕わしく思っていたと記されています。10節から12節までを見ると、彼らの生活が単なることばではなく、力強い証しであり、彼らの奉仕は、この聖なるきよい生活によって成されていたのです。

そして13節から18節までを見ると、彼らの奉仕の働きは、みことばを生きる神のみことばとして受け取ったゆえに大成功を収めたことが記されています。19節と20節を見ると、彼らは奉仕をするときに、絶えず主の再臨に姿勢を合わせ、待ち望む信仰を堅くもっていたと分かります。

要するに彼らは、ちょうど母がその子どもを育てるように、あるいは、父がその子に対してするように、信者ひとりひとりに対して、力の限り、配慮したとあります。7節と11節を見るとそう書かれています。

今日、パウロと同じように、このようにして奉仕をする者は、当時と同じように、豊かな実を結ぶことを体験することができ、そのような奉仕によって初めて、生き生きとした教会が生まれます。

また、パウロと同労者の働きによってわかることは、福音の宣教がいのちを懸けるに価するものであると8節を見ると分かります。そして12節を見ると分かります。彼らの宣べ伝えた福音の本質は、主が御国とその栄光とに私たち人間ひとりひとりを召してくださったことであります。そのため、私たちはそれにふさわしく主なる神のみこころにかなって歩くように導かれているのです。

パウロと同労者の特徴は何だったのでしょうか?それは無私無欲の心と、喜んで苦しみを受ける覚悟と、愛に満たされた真心でした。

彼らは決して自分自身のことを大切に考えないで、絶えず、教会、信じるものの群れがきよめられ、成長することを心から願ったのです。彼らはちょうど、親が子どもを育てるように、兄弟姉妹ひとりひとりのために配慮をしたのです。彼らはつまずかないように、またいつも主のみそば近くにいるようにと心から願っていました。

もうひとつの質問があります。すなわち彼らの奉仕の働きがいかなる影響を及ぼしたかについてちょっと考えてみましょうか。福音はいつも周囲の者に対して二面的な効果をもたらすということ、すなわち、それを受け入れるか、拒むかのどちらかです。

13節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹は宣べ伝えられた福音を神のことばとして受け取ったことがわかります。そしてこれこそパウロと同労者の心からなる感謝をささげた理由だったのであります。

14節を見ると、テサロニケの信者たちは主のみことばを受け入れただけではなく、主の御言葉を述べ伝えるものとなりました。神の諸教会にならう者となり、苦しみや迫害をも喜んで受けたことがわかります。彼らは多くの使徒たちと同じように、イエス・キリストの弟子が誤解され、迫害されなければならないという事実を身を持って体験しました。

20節を見ると、テサロニケの信者たちこそ、実にパウロと同労者たちの誉れであり、喜びであると記されています。これこそがパウロと同労者たちの働きの結果でした。今日でも同じように、みことばに対して心を開き、それを受け入れて、信ずる者には永遠のいのちが与えられます。

私たちの大部分が自分の罪が赦されており、主なる神との平和を持っているということを体験的に知るようになりました。けれども、そのような信じる者であっても、あなたこそ実に私の誉れであり、また喜びであると言われえる人の数はそんなに多くないのではないでしょうか。

テサロニケの信者たちはみことばを受け入れ、激しい苦闘を通して、神の諸教会にならう者となりました。彼らの信仰が、苦しみや悩みを通してダメになることなく、一層しっかりとしたものになりました。彼らは意識的に見えるものではなく、見えないものを見たからです。全部、主から受け取ったからです。

彼らは日常生活においても、無私無欲の献身的な生活に忠実に従いました。このようなわけで、彼らはパウロと同労者たちの誉れとなり、喜びとなりました。そしてパウロと同労者たちの伝道活動、福音の宣教の土台を成しているものはまさに、神のみことばだけであったことがわかります。

主のみことばを受け入れるところには、いのちがあり、それを拒むところには、憎しみと争いとがあります。テサロニケの信者はみことばをむなしく聞くことはありませんでした。彼らはみことばを通して主の声を聞きました。

彼らは、みことばを受け入れて信じ、イエス様との出会いを体験的に知るようになったのです。このイエス様は彼らにとって結局、すべてとなりました。彼らはみことばを通して、主なる神がひとりひとりに語りかけてくださることを確信したゆえに、そのような信仰を持ち続けることができたのです。

けれども、このようなテサロニケの信者たちとは反対に、大部分のユダヤ人は、みことばをむなしく聞くにとどまってしまったのです。そのようなユダヤ人たちは多くの預言者たち、主によって遣わされた人を殺しただけではなく、イエス・キリストを十字架につけ、さらにパウロをも迫害したのです。みことばをむなしく聞くことは本当に悲劇そのものです。

私たちも多くのみことばを聞きましたが、それはむなしく終わってしまったでしょうか。それとも、むなしくはなかったのでありましょうか。

第1テサロニケ
2:13 この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

すなわち、主のみことばは働くことを望んでおられ、実際、働くことがおできになるのです。その生き生きとした証拠は、取りも直さず、生き生きとしたテサロニケの信者の群れでした。このように、みことばがわれわれの心の内に宿り、働くことがお出来になるかどうかということは、非常に大切な問題です。

もう一か所、読んで終わります。イザヤ書の66章の2節です。素晴らしい主の呼びかけです。

イザヤ書
66:2 主の御告げ。わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿