2010年6月13日日曜日

ひとつになる幸せ

ひとつになる幸せ
2010年6月13日、御代田よろこびのつどい
ゴットホルド・ベック

第一ヨハネ
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

愛する重田兄にとって、喜びでしょうね。教え子が救われただけじゃなくて、主に仕えたいと心から望んでおられるからです。昨日から始まった喜びのつどい、20日まで長い喜びのつどいの特徴は、交わりであります。ひとつになる幸いを新たに味わい知るべきではないでしょうか。

1900年前のパウロの悩みの種は、救われた兄弟姉妹は、1つではなかったことです。だからパウロは、よく「私は悩んでます。困ってます。」ヨハネの与えられた使命は、主との交わりの大切さを強調すること、また兄弟姉妹との一致の必要性を願い求めることでした。だから彼は、今読んだように書いたのです。決して新しいものではなかった「元に戻ろう」そういう呼びかけです。

孤独な人間にとって、どうしても必要なのは、交わりなのではないでしょうか。おもに、お医者さんたちは、忙しくて、忙しくて大変です。

アメリカでね、一人の人が病気になると2人の医者がつくようになるんですって。だから高い。日本だったら考えられない話。大体の医者は、病気を大切にするかもしれないけど、病人のために暇がない。悲劇的。

病気よりも大切なのは病人じゃないの。病人は希望を持たなければ、悩みながら喜ぶことができなければ、ちょっとかわいそうなのではないでしょうか。

使徒行伝にでてくる、主の交わりによって救われた人々の交わりのような、真の交わりとは、どんな交わりであるかを知るべきなのではないでしょうか。ちょっと見てみましょうか。

使徒行伝
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

ここに出てくる信徒たちは、あの五旬節の時、救われた人々ですけど、ここで彼らは、使徒たちの教えを解かった、穴居して理解したのではなく、守ったと書かれています。この使徒のいのち、教えとは何なのでしょうか。もちろん使徒が伝えたのは、イエス様の教えでした。ほんとはちょっと違う。教えよりも、イエス様ご自身です。

イエス様の教えは確かに、まともな人間はみな認めざるをえない。最高です。イエス様の教えと比べられるものは、1つもありません。けど、イエス様の教えだって、イエス様の教えによっては誰も救われません。守るものじゃないからです。

イエス様は、「たえず喜びなさい」、「はい、かしこまりました、」そんなもんじゃない。イエス様は、「あなたの敵を愛せよ」、「はい、」やろうと思っても、うまくいきません。けどもイエス様は、ある人は、頑張って努力すれば、何とかなると思ったことがない。人間なんていくら頑張っても、自分の敵を愛せない。そうすると問題は、人間です。認めたくない。頑張れば何とかなる。

したがって、聖書の教えとは、守るためよりも、破るために与えられてる。人間は自分の弱さ、みじめさを認めざるをえないと、助け求めない。守りたい心はあるけど、無理。あなたが助けてくださらなければ。そこまでいけば、決まったもんだ。結局、使徒たちは、イエス様の教えを述べ伝えるよりも、イエス様を紹介したんです。

終わりの時代に生きている私たちに、どうしても必要なのは、この使徒の教えに確かに留まることです。聖書は何といっているか。我々にとって大切なのはそれだけなのです。我々人間が何を考えるか、思っているか、感じているかとは別にどうでもいい。聖書は何といっているか。嘘を知らないイエス様は何を約束したのかという態度をとると、非常に楽になります。

私たちは信徒の交わりを知るべきなのではないでしょうか。使徒の教えが、イエス様ご自身であるなら、信徒の交わりもイエス様との交わりです。聖書を読むとただ1つの交わりが書かれています。それは父ならびに御子イエスキリストとの交わりです。パウロは、あまり模範的でないコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

過去形です。けれども彼らはそれを忘れたようです。この御子主イエス様との交わりこそ、信徒の交わりの源です。私たちは本当に父ならびに御子イエス様との交わりを知っているのでしょうか。この交わりは、表面的な理論によって生まれるものではありません。この交わりは、教義を同じくするという理由で生まれたり、また会議を通して決議された結果生まれるというものではないのです。

この交わりは、いのちと霊の交わりです。この交わりの間には、少しの暗いところも影もあってはなりません。父ならびに御子イエス様との交わりには、完全な信頼がなければなりません。父は御子であるイエス様を心から信頼され、御自分の御計画を全部教えてくださり、これに委ねられました。

全部の計画を少しの不安もなく、委ねることができたのです。反対にイエス様の父に対する態度も、全く同じでした。イエス様は、父なる神に完全により頼み、少しも疑わず、父の御心を行われました。あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、十字架に向かって歩まれる時も、少しも疑わず、全き信頼を父においておられました。

イエス様と父なる神は、お互いにそんなに信頼しあっておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼が、交わりです。この父と御子のすばらしい交わりに、使徒も我々も加わることができるとは、ちょっと考えられない、驚くべきことです。

主は何ゆえに私たちをこの交わりに召してくださったか、知ることができません。ただ1つ解かることは、計り知れない主の愛のゆえであるということです。イエス様は、この交わりに、私たちを招いてくださるために、この地上においでになりました。イエス様が地上におられた時、願っておられることは、第一に弟子たちが、この交わりに入ることができるようなことでした。

私たちは、救われるために救われただけではありません。このすばらしい交わりにあずかるために、救われたのです。私たちは良心の咎めが消され、救いの確信を得るために召されただけではなく、この交わりにあずかるために召されました。

もし、人が父ならびに御子イエス様との交わりに入りますと、使徒行伝にあります。信徒の交わりに入ったことになるわけです。使徒行伝に出てくる信徒たちは、別に特別な人々ではありませんでした。使徒たちも同じく特別な人々ではなかったけど、使徒はいかに創られたのでしょうか。使徒はイエス様に選び、特に召された人です。ちょっとマルコ伝の3章を見ると解かります。

マルコ
3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、

イエス様はこれを見るとわかりますように、使徒たちをまず、ご自分のみもとにおくために召され、そのあとで、その次に遣わすために召されたことがわかります。結局イエス様の呼びかけとは、いつも2種類でした。すべて疲れた人、孤独になった人、色々なことで悩んでいる人は、おいで。わたしのところに来なさい。

キリスト教に入るんじゃない。教会に行けじゃない。わたしのもとに来なさい。そして、イエス様のとことに行った人々は、あとで遣わされた。おいで、おいで、出て行け。全世界に行って福音を述べ伝えなさい。

前にも、あっちこっちでね、ドイツの1つの歌を紹介したんです。歌ったことがないし、メロディーもわからない。けどもあの歌を読んでた時、たいへんだと思っちゃった。スイスの1つの神学校の校長先生の作ったものです。もとは、エレミヤ記の8章20節です。

刈り入れの時も過ぎ、夏も終わった。それなのに私たちは、救われない。このみことばを元にして作ったんです。紹介します。

恵みの時は終わりに近づいている。広い世界に、いまや静かに終わりの日が近づいている。遠い砂漠の底から、不安な叫びが聞こえてくる。私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。私たちを照らす神の恵みなくしては、私たちは苦しみと闇の中、暗い道を生きなければならない。永遠に、永遠に。

あなたたちは歌い、喜びに満ちている。自分は神の子であるという。私たちは、死のいけにえであり、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。あなたがたはなぜ、立ち止まっていて、夜が始まる今、私たちを救おうとしないのか。あなたがたはなぜ、主なる神がそのひとり子を遣わして、自分たちを愛していることを教えないのか。

あなたたちのおかげで、自分たちはそれを知らずに、希望なく滅びゆくのだ。自分たちは、死ぬために生まれたのであり、死は永遠から永遠に至る、我々の運命なのだろうか。私たちには、星が輝かない。約束の光も照らされない。遠くの方で、裁きの雷が聞こえる。

なぜ、なぜ、あなたがたは、急がないのか。神は、行って全世界に十字架の勝利者を述べ伝えよと言っているのに。

あなたたちは、私たちの哀れな心のために、喜ばしき知らせを持っている。傷を癒す薬を、苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに、なぜ、そんなに長く沈黙しているのですか。

あなたたちの信仰の岩に至る道を示すことばを、私たちに聞かせてください。私たちの涙をぬぐってください。私たちが死につくのも、あなた方のせいです。私たちの罪は悩ませ、夜は近づいています。私たちは、私たちの魂をサタンの力に与えなければならない。永遠に。永遠に。

遠くの国々から、幾百万という人が、「収穫の主よ、聞きたまえ。」と呼んでいる。私たち信者に、新しい恵みを与えてください。私たちの罪を赦してください。待ち焦がれている魂のところへ、十字架のことばを運ぶものとなさしめたまえ。彼らが永遠に滅びないように。

ちょっと大変な歌ですけど。我々のまわりに多くの人々が悩んでいる。だいたいの人々は、隠しています。けど、人間は悩むものです。もちろん人間は、説教を聴きたくない。励ましてもらいたい。理解してもらいたい。

愛されたい。けど、自分の力では無理。だから、イエス様に頼らなければいけない。イエス様はどうして、12人の弟子たちを選んだかといいますと、彼らを身近に置くため、彼らと親しい交わりを持つため、その後で、遣わすため。全世界に行ってもらいたい。福音を延べ伝えてもらいたい。

これは当時のイエス様の目的、御心であっただけじゃなくて、この主の思いは変わらない。結局イエス様は、ご自分が永遠の昔から持っておられた父との交わりに、使徒たちも入ることを願われました。

イエス様は今日も全く、当時と同じように、この交わりに私たちがあずかることを、願っておられます。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかることがでるとは、何という幸い、何という特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足することがあっては、残念です。

私たちはイエス様に仕えることが、一番大切であると考えますけど、主の考えは違うでしょうね。イエス様にとっては、まず御自分との交わりを持つように、我々に求めておられます。

人は熱心な働き人ならば、良い働き人だと言いますけど、主の考えは違います。主のために熱心に御奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人々がたくさんいますが、これは本当に哀れなことです。私たちは、弟子と同じようにこの世と罪からのがれるために、選び出されましたが、そればかりではない。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるべく、召された者です。

信徒の交わりは、父ならびに御子イエス様との交わりであり、これは今話したように、いのちと霊の交わりです。イエス様のからだの交わり、すなわち信徒の間の交わりは、霊のまじわりですから、そこには制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。この交わりに私たちは召されたのです。

けれども、問題はどうして、この交わり、全き信頼に入ることができるかということです。弟子たちも、最初はイエス様と親しい交わりをもっていませんでした。最初はただ、イエス様と係わり合いがあると言った程度でした。イエス様は弟子たちを召し、彼らは、3年半のあいだ、イエス様と共に生活しました。夜昼いつも一緒でした。この間イエス様は、ご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちとの親しい交わりに入ろうとなさいました。

イエス様は、彼らを父なる神との交わりに導びこうとなさいましたが、彼らは理解できませんでした。イエス様は、弟子たちと少しの疑いもない、全き信頼をおく交わりに入りたかったんです。けれども、いざイエス様が深い御心を示そうとなさると、弟子たちは、イエス様を誤解してしまいました。弟子たちは、それだけではなく、お互いの間にも深い交わりを持たなかったんです。ただ係わり合いがあるといった態度でした。彼らの間には、交わりがなかっただけでなく、時々喧嘩をし、言い争いもあり、イエス様はその仲裁をしなければならないといった有様でした。

12人の弟子は、ユダを除いて心からイエス様を愛していました。そのために、彼らはすべてを捨てて、イエス様に従ったんです。それにもかかわらず、彼らの間には、本当の交わりがありませんでした。お互いに妬み、誤解し、争いました。ヤコブとヨハネは、自分が一番偉くなりたいと思い、他の人々をのけ者にし、2人で相談しました。ちょっと見て見ましょうか。

マルコ
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

このように弟子たちの間には、本当の交わりがなかったんです。けど、やがて五旬節が来た時、弟子たちは、一変に変わりました。この時から彼らは、本当の交わりを持つようになりました。ペテロが立ち上がった時、皆も他の11人も共に立ち上がったと聖書はいっています。ペテロが立った時、他の者も一緒に立ったんですけど、これは前もって相談していたわけではなかった。自発的に自然にそうなったのです。12人の使徒はもはや12人の1人びとりではなく、12人が1つのからだをなしたのです。

五旬節の日の立役者は、なるほど1人だったんですけど、聖書をみると、ペテロだけが目立ったわけではなかったことが解かります。人々は皆を見て驚いたとあります。ペテロの説教を聞いた、証を聞いただけではなくて、皆を見たとあります。五旬節は、まことの教会の誕生日です。このまことの教会とは、1つの宗教団体でもないし、1つの組織でもありません。この時から、信者はもはや1人びとり、ばらばらでなく、イエス様をかしらとする肢体に綴り合わせたのです。

ペテロと他の使徒たちは1つでした。霊の交わりを持っていました。使徒たちは、お互いに全く信頼し、そこには他の人たちを互いに喧嘩し、疑い、恐れるといったことは、見受けられませんでした。

五旬節の前は、このような交わりは、天の父なる神とイエス様との間にしかなかったんですけど、この五旬節から、多くの人々もこの交わりに入ることになったのです。三千人の人々がこの交わりに1日であずかったと記されています。これらの人々は、使徒の教えを守り、信徒の交わりをなしたと書かれています。彼らはイエス様のみことばを、自分たちの生活の基準として、受け入れ、自分たちはすでに信徒の交わりにあずかっているとの自覚を持っていました。この交わりは、外から来るのではなく、内に住んでおられる御霊のゆえに生まれた交わりです。

エペソにいる兄弟姉妹たちとは、確かにパウロの喜びの種でした。彼らにパウロは書いたのです。

エペソ書4章4節~6節まで、7回も同じことばがでてきます。すなわち、1つということばです。

エペソ
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

これは彼らが1つになった、すばらしい交わりの源でした。交わりとは、すべてのものを共有にするということです。初代教会の兄弟姉妹たちはそうでしたね。前に読みましたが、もう一回、読みます。

使徒行伝
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

誰も自分の持ち物を主張する者はなく、日々心を1つにしていたと書かれています。彼らは霊において1つであったばかりでなく、家財も願いも心も1つでした。これこそ信徒の交わりであり、主イエス様とのからだとしてのあるべき姿です。

私たちの一人一人も使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなしたと言える状態になったら、すごいのではないでしょうか。使徒たちは、イエス様と共に過ごした3年間、この交わり、この本当の交わりを知らずに過ごしていました。これは交わりに入る準備の時でした。

この3年間、実りがない3年間のように見えますけど、この3年の年月の間に、彼らの古い性質は少しづつ取り除かれていったのです。もし、弟子たちがイエス様に従わず、自分の職を持っていたなら彼らは、信心深い人々として尊敬されながら、生涯を終わったことでしょう。

けれども、イエス様と共に歩んでいた彼らは、自らの姿を教えられ、主のみもとで、本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗い所は、だんだん取り扱われ、明るみに出されてきました。彼らの心に隠された思いが、現わされてきました。もちろん弟子たちは、他の人々よりは悪い人々ではなかったんですけど、主の光に照らされた時、絶望的な自らの真相を教えられたのです。

イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは全く絶望してしまいました。その時彼らは、ばらばらになって逃げたとあります。交わりの秘密は何処にあるのでしょうかね。前に読みました箇所、もう一回読みます。

第一ヨハネ
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

けれども、私たちが今持っている悩みは、光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいるのではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、我々の生まれながらのものは、徹底的に駄目であり、役に立たない、汚れたものであることが解かります。もし、イエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも正しくなります。御霊は、我々の上に注がれ、私たちは、1つのからだとなるように、まことのバプテスマを受けます。意味はガラテヤ書2章20節でしょう。信じる者にとって最も大切な箇所はこのガラテヤ書2章20節です。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

この事実が土台になって初めてまことの交わりが生まれてきます。私たちは、日々この立場をとり、認め、すべてを明け渡す時、御霊は豊かに私たちを満たしてくださり、父ならびに御子イエス様との交わりにあずからせて下さいます。

この交わりは、光の交わりであり、いのちの交わりであり、また愛の交わりです。もし、この交わりが私たちの中に起きると、主ご自身そこに居ますと呼ばれるほど、主の御栄えを現す我々となることができます。神の家とは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのです。私たちもこのような、からだなる教会になりたいものです。私たちを召し、父ならびに御子イエス様との交わりに入れて下さったイエス様に、心から感謝をささげようではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿