2023年11月19日日曜日

三つのうめき

三つのうめき
2023年10月1日、町田福音集会
重田 定義

ローマ
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

それでは、今、ご紹介にありました『三つのうめき』、ローマ書の手紙の中にございます三つのうめきについて、ご一緒に学んでみたいと思います。

まず、被造物のうめきについてであります。言うまでもなく、被造物というのは、全知全能なる神、創造主なる神によって造られた、世界、全宇宙に存在する全てのものを指しております。

創世記の一章から二章には、神様は、無から全てのものをお造りになった。そして、造られたものをご覧になってよしとされた、すなわち、満足されたとあります。全てのものは、神様の御心にかなった出来栄えだったからであります。

これらの被造物は、神様のご栄光の現れとして造られたものでありました。その被造物が、うめき、苦しむと、擬人化されて表現されているその被造物のうめきとは、いったいどういうものなのでありましょうか?

創世記の一章の二十六節には、神様がご自分の御心に素直に従うことを願われて、ご自分に似るものとして、私たち人間をお造りになった。その人間に、ご自分のお造りになったすべての被造物を管理させようとお考えになったとあります。

その最初の被造物、人間の被造物は、アダムとエバであります。けれども、この二人は、自分の欲望を満たすために、神の御心に背いて、禁断の木の実を食べるという罪を犯してしまいました。その結果、アダムとエバの子孫である人類は、全て生まれながらにその罪の性質を受け継ぎ、罪あるものとなってしまったのであります。それゆえ、その罪は原罪と呼ばれます。それ以来、神様によって造られた被造物は、人間に管理されるどころか、かえって人間によって痛めつけられてきたのであります。

罪を持った人間が、神様のお造りになった被造物を正しく管理できないのは、これは当然のことであります。人間は自分たちの欲望を満たすために、勝手気ままに、神様によって造られた被造物を利用してきてしまったのであります。そのために被造物は、今に至るまで、現在に至るまで、うめいているのであります。

具体的な例はいくつも挙げられます。これまで、数多くの植物や動物が、人間のわがまま勝手な行動によって、絶滅したり、絶滅の危機に瀕しております。また、アマゾンやシベリアなどの世界に分布している大森林は、光合成――光の合成によって、大気中の二酸化炭素を酸素に変えるという、生態系にとって大切な役割を果たしておりますけれども、今や、大規模な開発によって、その姿はどんどん消滅しつつあります。

また、人間の生活に必要なエネルギーとして、大量の化石燃料が燃やされ、大気中の二酸化炭素は、どんどん増加しております。大気中の二酸化炭素の増加は、地球の温暖化の大きな原因であり、その影響は、地球の気象の変化となって現れ、その結果、人間の生活に、地球規模的な被害が起こっていることは、皆さん、ご承知の通りであります。

人間はようやく、このことの重大性に気づいて、世界各国の政治家や専門家たちが、何度も会議を開いて協議をしております。けれども、悲しいことに、その成果は、全くと言っていいほど、上がっておりません。どうしてでしょうか?それは、その根本原因が、自分たち人間の罪の性質、すなわち、自己中心という性質にあるからであります。地球の環境を守ることは大切と気づいても、そのために自分の欲望を抑えることはできない。これが被造物を、ますます苦しめることになっている原因なのであります。

では、いつ被造物は、この苦しみから解放されるのでありましょうか?いつ、うめきが喜びに変わるのでありましょうか?それは、黙示録をはじめ、聖書の各書に、次のように記されております。すなわち、天に戻られたイエス様が、サタンを縛り、イエス様を信じる者には永遠の祝福を、信じない者には永遠の滅びを与えるために、地上においでになり、千年のあいだ、王として信じるものとともに、この世を支配されるといういわゆる千年王国の時なのであります。

その時、被造物は人間の罪による束縛から解放され、神様が初めにお造りになったとおりの完全な姿、状態に回復されるのであります。天にあるもの、地にあるものの全てが完全な姿に回復されるのであります。聖書はこれについて、次のように記しております。

イザヤ
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

これが、イエス様、ご再臨の時の被造物の姿なんですね。ここには、完全にされた全ての被造物が、本当の平和の中で、神様を賛美し、神様の栄光を表すものとして生活する、本当に美しい情景がここに描かれております。

今はまだ、その前の生みの苦しみの時代なのであります。今の被造物のうめきは、この苦しみから解放される耐乏のうめきに他なりません。

次に、『御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます』という箇所について、考えたいと思います。

『御霊の初穂をいただいているもの』とは、イエス様を信じ、その保証として御霊を与えられた私たち信者です。しかし、どうしてイエス様を信じたものが、うめかなければならないのでありましょうか?

第一に考えられるのは、罪から解放されて新しく生まれ変わった信者の霊は、イエス様の御心に従うことを望んでいますけれども、この世に生きている信者の体は、まだ古いままなので、そのために霊と肉とのあいだの葛藤が起こるからなのであります。パウロの言葉は、それをよく言い表しております。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人(・・・・つまり、イエス様を信じて、新生した霊のことです・・・・)としては、神の律法(・・・・すなわち、神様の御心・・・・)を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

熱心なユダヤ教徒であり、優れた聖書学者であったパウロは、初めは、イエス様が神の御子であることを認めず、イエス様を信じる者を迫害しておりました。けれども、復活のイエス様に出会って、霊の目が開かれてからのパウロは、ガラテヤ人への手紙で、次のように証しするほどの強い信仰者に変わりました。

ガラ
2:2 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

そのパウロが、『私は本当にみじめな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか』と嘆くほどに、この世に置かれた信者には、霊と肉との葛藤が激しいのであります。全く私たちも同様ではないでしょうか?

しかし、信者が未信者と決定的に異なっていることがあります。それは、イエス様の十字架のあがないを信じたものは、もはや、決して罪に問われないという事実であります。パウロは、こう断言しております。

ローマ
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

8:1 ・・・・今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

このように、パウロは、イエス様を信じたものは、もはや決して罪に問われることはないと、心から確信しつつ、心の中でうめきながら、体のあがなわれることを待ち望んでいると言っているのであります。『体があがなわれる』とは、言うまでもなく、イエス様のご再臨の時に、信者の卑しい朽ちるからだが、イエス様に似た、朽ちることのない、きよい栄光の体に変えられるということであります。

ピリピ
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

では、その時は、いつなのでしょうか?イエス様は、次のように約束されました。

黙示録
22:12 見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って(・・・・すなわち、イエス様の十字架の血潮によって清められて、信者となり・・・・)、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門(・・・・すなわち、天の御国の門・・・・)を通って都(・・・・天の都・・・・)にはいれるようになる者は、幸いである。

なんというすばらしい約束でありましょうか。私たち信者は、『主よ、早く来てください』と祈りながら、その日を、今から今かと、待ち望むのであります。

三番目の御霊のうめきについて、これから考えてみたいと思います。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

イエス様を信じた私たちの心の中には、イエス様のお約束どおり、御霊が住んでくださっています。そして、絶えず私たちを支え、励まし、慰め、導いてくださっています。先ほども申しましたように、私たち信者は、この世に生きているあいだは、自分の思いを制御することができずに悩み、苦しむことが多々あります。

しかし、ここで、『御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちをとりなしてくださっている』とありますことに、私たちはあらためて深い感動を覚えます。私たち人間は、人の苦しみ、悩みを我がことのように覚えて、同じようにうめくことはなかなかできません。

けれども、神様から背き、離れた私たちを救うために、ご自身のいのちを捨ててくださったイエス様は、さらに御霊となって私たちの中に住んでくださり、私たちの痛み、苦しみをいつも、ともに負ってくださり、ともにうめいてくださるのであります。なんというイエス様の深いご愛ではありませんか。私たちはただ、感謝するばかりであります。

今日は、三つのうめきについて、ご一緒に考えてまいりました。

三つのうめきが止む時、それは、先ほども申しましたとおり、イエス様のご再臨の時であります。そして、その時が迫っていることは、イエス様ご自身が、その前兆について、弟子たちに答えておられることから知ることができます。

ルカ
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。
21:9 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」
21:10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
21:11 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。」

世界の現状は、まさに、イエス様がおっしゃったとおりに進んでいるのではないでしょうか?イエス様は、次の言葉で締めくくられました。

ルカ
21:36 「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子(・・・・すなわち、イエス様・・・・)の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

イエス様が教えてくださったように、私たちは、いつうめきが喜びに変わる時が来てもいいように、御霊に満たされ、身を慎み、心を整えて、祈りつつ、その日を待ち望もうではありませんか?

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