2023年7月23日日曜日

あなたがたも、ぶどう園に行きなさい

あなたがたも、ぶどう園に行きなさい
2023年7月23日、秋田福音集会
岡本雅文兄

マタイ
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

先週の別の集いでもお読みした御言葉ですけれども、最近ずっと、この御言葉に励まされておりますので、お読みいたします。

第一コリント
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

イエス様を信じて長いあいだ、私は、この御言葉の中に書かれている『あなた方の間で』という言葉を見落としていました。それまでは、兄弟姉妹の間では、自分の思いや考えを何でも話してもよい。それどころか、それこそ、主にある集会だと考えていました。その根拠の一つは、使徒の働きの4章の32節に書かれている、『信じたものの群れは、心と思いを一つにして、誰一人、その持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた』という箇所があったからだと思います。

そして、もう一つは、自分自身の価値観から、この箇所を理解していたのではないかと思います。しかし、先ほどお読みした箇所は、そのようには言っていません。パウロは――すなわち、聖書は――、何と言っているかというと、『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない』と言いました。あなたがたの間で、すなわち、イエス様を信じているコリントの兄弟姉妹たちの間で、なんでも言ったのではなく、一人の方の他は知らないことにした。すなわち、何も言わなかったと書かれています。

このように、あの多くの福音を伝えたパウロが決心した背景は、よくご存知の第一コリントの15章の3節から8節までの証しでありましょう。長いので初めの3節、4節だけをお読みいたします。

第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに(・・・・すなわち、父なる神が語られたとおりに・・・・)、私たちの罪のために(・・・・十字架につかれて・・・・)死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

・・・・うんぬんと続く、十字架の言葉であります。これが、パウロが受けたもっとも大切なことでした。この十字架につけられた方――イエス様――が、パウロの全生活を御霊によって支配されました。それで、この御言葉で、私もわかったことがあります。兄弟姉妹の間でこそ、予期せぬことが起きるということが分かりました。

私自身は、勘違いしていたようであります。信じた当初は、パウロの決心とは全く反対に、心にあることを、何でも兄弟姉妹に話していい、何を頼んでもいい、神の家族なのだからと、兄弟姉妹の善意を、主にある当然の好意として受け止めておりました。

パウロや当時の人たちの御父、および、御子イエス・キリストとの交わりと、私たちの交わりが異なるとすれば、このような決心があるかどうか、パウロの最初の決心、十字架につけられた方の他は何も知らないことに決心したという決心があっての交わりかどうか。時として、キリスト者たちの間にもたらされる不一致の原因の一つである――これが、そうであると導かれるのであります。

マタイ20章のぶどう園のたとえは、いくつかの視点で考えることができます。私も、このマタイ20章は、その時々に少しずつ与えられるものが変わってまいりました。変わるというよりも、強調しているところ、心に響くところが、変わってきたという方が良いかもしれません。

本日は、イエス様は今日、私たちに何をするように、このたとえから告げておられるかということを考えてみたいと思います。ぶどう園の主人に声をかけられた人々、すなわち、招待された人々について、御言葉の事実、御言葉に書いてあること、そのことに注目して、確認してみたいと思います。

まず、朝早くから働いた人たち、別の観点から見ると、ユダヤ人たちと言ってもいいかもしれません。ぶどう園の主人は、朝早くから労務者たちと一日、一デナリの賃金を与えられる約束、すなわち、契約を結んで、主人はぶどう園に彼らをやりました。この表現も、ここだけですね。やる。『ぶどう園にやりました』と書かれています。そして、この最初の人々は、労務者たちと呼ばれています。彼らだけがこのように呼ばれています。その賃金、一デナリは当時の一日の報酬として妥当な額でした。そして、彼らは合意いたしました。

最初に雇われた彼らは、先ほども申し上げたように、労務者と呼ばれて、初めからぶどう園の主人のために働く者として雇用されました。ここから、個人的な意見を申し上げますと、朝早くからぶどう園の主人と、約束、契約を結んだ人たちは、契約の民、ユダヤ人を象徴しているようにも思われます。聖書には、そう書いてありませんけれども、そのようにも思われます。

最後に明らかになる妬みによって、彼らを回復させようとする神の愛を、最初の出だしから覚えることができます。読んでいただいた8節から12節で――後でわかることですが――、仕事が終わった夕方、六時ごろ、朝早くから働いたこの労務者たちは、契約どおりの報酬、一デナリを得たにもかかわらず、文句を言いました。

次に、九時、十二時、十五時に、『ぶどう園に行きなさい。相当なものをあげるから』と言われた人たちについて、見てみたいと思います。おそらくは様々な経歴を持つ別の人たちが、それぞれの時間に、市場に立っており、何もしないでいました。私たちの目から見たら、働いておられたかもしれません。しかし、ぶどう園以外のところにいる人は皆、市場にいて何もしないでいたと、言っておられるようでもあります。

そして、彼らは、『相当のものをあげるから』という報酬の額が決まっていない、すなわち、正規の契約とはいえないぶどう園の主人の招待に従いました。明確ではありませんでしたけれども、彼らには働いた時間に相当すると、ぶどう園の主人が考える報酬が支払われるはずでした。

彼らはぶどう園に入った時、すでに働いている人たちを見たに違いありません。そして、自分の報酬は、彼らよりも少ないだろうと思ったでありましょう。しかし、あくまでこの世の常識からの私の推論で、聖書には何も書かれていません。ところが、彼らの賃金は同じ一デナリでした。そして、彼らも、私にはさまざまな機会を通してイエス様に出会った異邦人たちのキリスト者を象徴しているように見えます。

ただ、九時以降にぶどう園に行った人たちが賃金をもらった時の反応は、聖書には一切、書かれていません。喜んだのか、悲しんだのか、それとも、少ないと思ったのか、何もわかりません。

十七時に、『ぶどう園に行きなさい』とだけ言われた人たちについて考えてみると、彼らは、一言だけ言われました。ぶどう園に行きなさい。この一言。相当のものととか、一デナリとか、何も言われておりません。彼らは、何の約束もありませんでした。何も分かりませんでしたが、招待に応じました。

彼の心の思いは、やはり書かれていません。そして、一時間、働きました。ローマ書の4章に書かれている御言葉がよく似ていると、私も昔から思っておりましたし、多くの兄弟たちもそう思っておられるでしょう。ローマ章4章の4節、5節に書かれている何の働きもない者のようであります。

ローマ
4:4 働く者のばあい(・・・・すなわち、労働者、マタイの20章では労務者のばあい・・・・)に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

ここは朝早くから、ぶどう園に雇われた人に、ちょうど当てはまるように思います。それは報酬と書かれています。

ローマ
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

彼らの賃金も、同じ一デナリでした。彼らは九時、十二時、十五時にぶどう園に行った人たちよりも、さらによけい感謝したであろうと想像できます。それは、ルカの7章47節を思い起こすからであります。

ルカ
7:47 だから、わたしは言うのです。『・・・・彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』

この前後を読んでいただければ、そのように思われるのではないでしょうか?

しかし、正確にいえば、この十七時にぶどう園に行った人は、何の働きもない者ではありませんでした。一時間、働きました。人間には完全に、主の前に何一つ働きがないと完全にへりくだった義人はいないということを、言外に告げているのでしょうか?それも分かりませんけれども、とにかく、何の働きもない人ではありませんでした。少しは、働きました。そして、自分も少しは働いているという自覚があったのではないでしょうか。

ともかく、彼らの賃金も同じでした。報酬とは書かれていません。報酬ではなく、賃金という表現になっています。やはり一時間、働いた人の反応も、前の人々と同じく、無言そのものでありました。

これが、三つのグループが経験したこと、事実であります。ここまでが聖書に書かれている事実でした。ここから少し、このたとえで、いちばん私の心に響いている御心を、ご一緒に少しだけ考えさせていただきたいと思います。

十八時、夕方六時になりました。五時に雇われて一時間、最後の人が働いた時刻になりました。20章8節では、『最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで賃金が払われました』と書かれています。賃金が支払われた順序は、ぶどう園に先に行った者が後でした。

イエス様がこのたとえをお語りになる直前に告げられた19章30節の御言葉のとおりであります。先の者があとになり、あとの者が先になりました。

【参考】マタイ
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

人の心に隠されていたことが明らかになるようにと、神の知恵により配慮された順番でした。賃金は全員が同じ、一デナリでした。当時の労働者の平均的な報酬、一家族がおそらく一日、生活できる金額でありましょう。

最初の者たちは、主人に文句を言いました。このたとえでは、朝早くから仕事をした人たちだけが、文句を言っています。他の時間にぶどう園に行った人たちは、何も発言していません。すでにお読みしたローマ章4章の『何の働きもないものが』という御言葉や、ルカの7章でお読みした『少ししか赦されないものは少ししか愛しません』などの御言葉からも、私はある時期まで、働きの少ない者も分け隔てなく愛してくださる普遍的な主のご愛、主のご人格に焦点を合わせていました。

しかし、あらためてこの個所を読むと、もう一つの事実にも、強い光が当てられていると、思わされるようになりました。一日中、働いた者だけが文句を言ったという事実です。この人たちに対して、イエス様が答えられました。このたとえは、この人たちとの会話です。

タイ
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束を(・・・・契約を・・・・)したではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

文句を言った人たちの一人に、イエス様が答えられたことは、14節の『ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたい。』これがみことばの事実でした。真実といってもいいでしょう。『普遍的な』とは言えないかもしれません。ただ、この場面で、この状況で、このように言われました。

しかし、よく考えてみると、すべてのことが、この一言に尽きるのではないかと思います。主のみこころとは、この最後の人にも、あなたと同じだけあげたい。そして、自分のものを自分の思うようにすることが御心である。神の本質であると、語っておられるように聞こえてまいります。

神は、ご自分の思うようにされる権威ある方であります。ですから神です。ここに御心が、いかなるものであるかが示されているように思います。

ローマ
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

あわれんでくださることも、『わたしはあなたを知らない』と言われることも、神の、すなわち、イエス様の想いひとつで決まります。

私たちは、祈れば願いがかなうと思って祈ってます。しかし、それは聖書で言う祈りでありましょうか。聖書は、自分の思うようにすると、イエス様の思いを、神の願いを、神のみこころを告げておられます。聖書に書かれた文字にも、律法にも、そのすべてにおいて、イエス様はそれをはるかに超えた方であり、そして、哀れみをもって、私たちを取り扱ってくださると、聖書全体が語っています。

そのイエス様に期待して祈るということであって、自分の思いを祈るということとは、大きくかけ離れているように思われます。イエス様は、絶対におかしなことはなさらない。これが、御心にかなう祈りではないか。この最後の人にも、あなたと同じだけあげたい。これだけが、希望ではないでしょうか?

しかし、神の思いひとつで決まるというその神の権威の重さ、大きさに圧倒されるだけではなく、喜ぶべき事実があります。神のみこころであるみ言葉は、決して消されないということです。ですから、私たちは聖書を読むべきであります。神のみこころがすべて聖書に書かれていて、そして、この最後の人にも、あなたと同じだけあげたいという主の御心も、聖書に書かれているからであります。

私たちが聖書を読むのは、その理由を理解するためではなく、そのみことばのとおりに行うために、何を行えばいいかが、聖書に書いてあるからでありましょう。

すでに救われた者として、救われる前は確かに、イエス様がどのような方か、理解したいと思って、聖書を読みました。しかし、いったんイエス様を信じた私たちは、理解することよりも、その理由よりも、私たちが与えられているいろいろな問題の理由よりも、聖書に書いてある御言葉、そのものをそのとおり行うために読む――そのために聖書があるのではないかと思わされます。

そうすれば、そのとおり行えば、必ず祝福されると、約束されているからです。愛、喜び、平安、その御霊の実が必ず与えられると約束されています。

パウロは、そのように聖書から、イエス様と出会って、そして、十字架につけられた方の他は何も知らないことに決心した。それがいちばん、確かなことである。イエス様のうちにいっさいの答えがあって、自分の願いの本質をかなえてくださると確信したからに違いありません。

本日、ご一緒に考えたかった結論がここにあります。私たちは、御心を知るとよく言いますけれども、主のみこころを知るとは、なぜこのようなことが、私に――自分に――起こったのか、理由を知ることではなく、神はご自身の思うようにされると神の権威を、神の絶対的な力を知ることではないでしょうか。そして、その神の思いは、みことばとして、聖書に書かれていると確信することではないかと思います。

ですから詩篇の作者は、119篇の105節に――ここだけではなくて119篇いっぱいに書かれていることですけれども――、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』と書かれた理由は、そういうことではないでしょうか。

そして、このたとえを閉じるにあたって、マタイの先ほど申し上げた19章30節と同じような御言葉で閉じられています。最初と最後で、サンドイッチのようになった御言葉であります。しかし、同じような御言葉ですけど、語順が変わっています。

マタイ
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。

この例えは、この二つのみことばが、先ほどの御言葉は『先の者があとになり、あとの者が先になる』と書かれていました。そして、最後の御言葉は、逆となって、『あとの者が先になり、先の者があとになるものです。』この最後の言葉は、一時間しか働なかった異邦人の私たち、キリスト者、あとの者が、時が経つと、あの恵みを忘れてたかぶるユダヤ人のように、先の者になる危険をも告げておられるのではないかと思われます。

また、高ぶる先の者が働きのないあとの者に与えられた恵みに妬みを起こし、その妬みによって、悔い改めて再び後のものに回復するというユダヤ人への約束が、ここに隠されてあるのではないかと、個人的に思われています。このような壮大な神の歴史とともに、神の権威を、この短い一つのたとえの中に感じ、心から怖れます。

どのような事情があっても、また、どのような時であっても、このようなイエス様がご支配されるぶどう園に行くとき、私たちは幸いです。そこに、どのような世界が待っているか知らなくても、ただイエス様は、あなたもぶどう園に行きなさい。この一言だけを、私たちが従っていくことができるその時に、本当に幸いです。『はい、行きます。』このような会話が、イエス様が望んでおられることではないでしょうか。十字架につけられた方は、そのために十字架で死に、そして、よみがえられたからであります。

最後にもう一度、繰り返して申し上げたいと思います。すでにイエス様を救い主として受け入れた私たちは、神のなさることの理由を知ることは、もはやいちばん大切な目標ではないということを、ご一緒に考えたかったのであります。

私たちの願いや、その他の一切の理由に関わらず、この神が言われたとおりがなる。すべてを知って、そして、すべてを用いて、益としてくださると書かれているこの神が思われるとおり、そのとおりになるという神の真実を、心から感謝して、受け入れることができる。そのような幸いに毎日、導かれますように。今日も、あなたもぶどう園に行きなさいと、聖書から聞えてまいります。『はい、行きます』と答えることができますように。

マタイ
20:14 ・・・・ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

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