信仰生活の成長
主は生きておられる、49号
ゴットホルド・ベック
また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」(マルコ4・26~29)
きょうは、キリスト者の「信仰生活の成長」について、ご一緒に考えてみたいと思います。はじめに読んだマルコによる福音書4章26節には「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので」とあって、主を信じ新生したいのちの生涯の始まりが書かれています。そして次の「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます」という27節は、新生したいのちの成長について書かれています。
肉体の誕生は、人生の始まりにすぎません。誕生すれば必ず成長がそれに続きます。同様に、霊的な誕生も信仰生活の始まりの第一歩にすぎません。新しく生まれた信仰者は、生まれたときのままで止まることなく、信仰の従順に至るまで成長しなければなりません。イエス様の歩まれた御後に従って歩む人生、これこそが、新しく生まれることの目的に他なりません。
信仰の成長について、このみことばから三つの法則を見ることができるのではないでしょうか。第一に、一歩一歩、成長すること。第二に、自ずから成長すること。第三に、目に見えないものに目を留めて成長するということです。ここで、これら三つの事がらについて短く考えてみたいと思います。
徐々に成長する
まず第一に、新しいいのちは、徐々に成長します。28節を見ると「初めに」、「次に」、「次に」と書いてあります。これは、霊的な成長が順を追って遂げられることを意味しているのではないでしょうか。信仰の成長には時が必要です。この段階的な成長について、聖書は他の多くの箇所でも語っています。まず、コリント人への手紙第二の3章18節を見てみましょう。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3・18)
ここで「栄光から栄光へ」ということばは、成長が徐々に、順々に進むことを示しているのではないでしょうか。もう一箇所、ペテロの手紙第二の1章4節を読みます。
あなたがたが、その約束のゆえに.世にある欲のもたらす減びを免れ、神のこ性質にあずかる者となるためです。(2ペテロ1・4)
このみことばは現在形で書かれており、そのことからも霊的な成長が一挙に遂げられるのではなく、段階的に行われるということを知ることができます。新しいいのちの成長のためには時間が必要です。ですから私たちは、お互い兄弟姉妹同士、忍耐をもって、相手の霊的な成長を祈りながら待つことを学ばなければなりません。
自ずから成長する
新しいいのちは、徐々に成長すると同時に、自ずから育ちます。始めにお読みしたマルコによる福音書4章28節を見ると、「地は人手によらず実をならせる」とあります。ですから種を蒔く人は、種を蒔き終わったら家に帰って眠ってしまっても、別に構わないのです。種蒔きは種を蒔きます。種蒔きの仕事はそれで終わりです。新しいいのちは自ずと成長します。
イエス様は、ご自身がこの地上で公に活動される期間がたった三年間しかないということをもちろんご存知でした。それでもイエス様は、焦ったり先走ったりすることなく、平安と喜びに満たされ、地上での仕事を成し遂げてくださいました。イエス様は、蒔かれたみことばの種は、その時が来れば必ず実を結ぶことを確かにご存知だったのです。この主イエス様の態度は、私たちが忍耐を欠いて、先走ったり、焦って物事を行ったりしがちな時に、教訓を与えてくれることでしょう。
イエス様は、いつでも私たちに信仰による平安をお与えになりたいと思っておられます。主のみことばは、私たちが自分の努力や熱意では決して獲得することのできない、永遠に残る御霊の実を結ばせてくださいます。主イエス様は、私たちがこのことに信頼して、いつも喜びに満ちて、収穫の時を待ち望むことを願っておられるのです。
私たちの信仰生活において、次の二つの側面は両者とも極めて大切なことではないでしょうか。まず、私たちが忠実に、熱心に主に仕えること。そして、主のくださる平安と喜びをもって主をじっと見つめ、主が業を成してくださるまで忍耐強く待つことです。
この二つのどちらが欠けても、健全な信仰生活とは言えません。間違った熱心さは、信仰の平安を奪います。また、主が成してくださるからといって、自分からは何もしないという無気力な態度は、主の働きを妨げてしまいます。主に喜んで心から熱心に仕えつつ、魂の平安を心のなかに持つことです。この調和のとれた信仰生活こそ、私たちに必要とされています。ヘブル人への手紙の著者は次のように書いています。
神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。(ヘブル6・10~12)
「正しい熱心さ」は「信仰による魂の平安」を伴います。この両面は、私たちがある人を主のもとに導こうとする時にも必要です。このことを特に、まだ救われていないご主人やご家族をお持ちの兄弟姉妹方に覚えていただきたいと思います。新生のいのちは、生涯を通して段階的に成長します。またそれは、人の力ではなく、主の力によって自ずと成長していくものです。
見えないものに目を留めて成長する
信仰の成長には三つの法則があります。一番目、徐々に成長するということです。二番目に、主の力によって自ずから成長するということ、三番目に、目に見えないものに目を留めて成長するということです。
新生のいのちは、最初の頃は目に見えるものが何もなくても、いずれ必ず実を結ぶようになります。28節にこのことが約束されています。「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります」と。良い種が良い地に落ちるならば、時が来て実を結ぶようになることは議論の余地がありません。これと同じように、新しいいのちは、いつか必ず実を結ぶようになります。けれども、そのためには、人は忍耐強く待たなければなりません。このことは信仰生活において、ある意味で極めて大きな試練だと言えます。
新しく生まれた信者は、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊にたとえることができます。ペテロは、第一の手紙2章2節に次のように書いています。
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(1ペテロ2・2)
人が生まれた目的は、いつまでも人に面倒を見てもらう赤ん坊の状態に留まることではありません。同じように、新生のいのちの目的は、みことばの乳によって成長し、大人になることです。パウロは「完全なおとな」という表現を使いました。エペソ人への手紙4章13節に次のように書いてあります。
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4・13)
完全なおとなに成長するためには、忍耐の上にも忍耐が必要なのです。確かにパウロは、祈りによって、信じる者の成長のために闘いました。ローマ人への手紙一章11節を見ると、彼は次のように告白しています。
私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。(ローマ1・11)
これはパウロの切なる祈り、また願いでした。同じくパウロは、コリントにいる兄弟姉妹たちにも次のように書き送ったのです。
私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(2コリント2・4)
というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(2コリント11・2~3)
パウロは、心から兄弟姉妹のことを心配し、正直に告白したのです。パウロの心の痛みはいかばかりだったことでしょうか。「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか」(2コリント11・29)と書き送っています。
また、ガラテヤ地方にいる兄弟姉妹たちにも、パウロは自分の苦しい心の内を打ち明けています。
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4・19)
パウロは本当に信じる者の成長のために祈り、闘い続けたのです。コロサイにいる人々にもこのように書き送っています。
あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。(コロサイ2・1)
信仰生活の結実
ここまで信仰生活の成長について考えてきました。信仰生活は、目に見えないものに目を留めることによって成長していきます。パウロだけではなく、ヨハネも同じように考えていたのではないでしょうか。ヨハネの手紙第一の3章2節を見ると、次のように書かれています。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。(1ヨハネ3・2)
「キリストに似た者となること」、これこそ私たちの信仰の結実、また目的に他なりません。
最後にこの信仰生活の結果について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。
収穫の時には、種がどのように成長したかすべてが明らかになります。イエス様を受け入れた人は誰でも信者ですが、信者の中には様々な人がいます。信じる者は、主のみことばによって新しく造り変えられ、永遠のいのちを持っています。しかし、このような事柄を満たしている信者であっても、その土台の上に何をもって自分の信仰を打ち建てるかによって、違いが出てきます。つまり、金や銀や宝石で建てる信者もいれば、木や草や藁で建てる信者もいます。前者に属する信者は、神から報いを必ず受けますが、後者に属する信者は、主から「実」を受けることができません。(1コリント3・12~15)
私たちの心の状態が、この事を決定します。もし、信者であって、自分自身の事柄をまず第一にし、主よりも仕事を先に立て、集会の兄弟姉妹のことを思うよりも自分の家族を大切にし、聖書に親しむよりもテレビを愛するという信者であるならば、主から報いを受けることはもちろん無理です。
主は私たちを祝福したいと思っておられます。ですが、主が祝福してくださるかどうか、主が私たちをお用いになることができるかどうか、また主が私たちの祈りを聞き届けることがおできになるかどうかは、ひとえに私たちの心の態度にかかっています。
私たちの心の願いが、主が御栄光をお受けになってくださることであり、主の御心を行うことであるなら、主は私たちの祈りをお聞き届けになることができます。ところが、私たちが愚かにも、自分勝手な歩みをし、自分の願いを祈るなら、主はその祈りをお聞き届けになることができません。なぜなら、主の私たちに望んでおられる最善の事柄は、私たちが「主ご自身に似た者となる」ことだからです。
では、私たちの内にキリストが形造られるためには何が必要でしょうか。一つには、試練を通ることです。二つ目には、忍耐を持って待つことです。三つ目に、目に見えないものに目を留めることです。
イエス様は、私たちのために試練と苦難を経て十字架に架かり命を捨ててくださいました。イエス様は、小さな一粒の種として死なれましたけれども、このことによって主は多くの実を生み出されました。多くの実とは、イエス様のみからだなる教会であり、主の恵みによって救われた兄弟姉妹たちです。十字架の死から二千年の間、その「種」は成長し続けました。
今、刈り入れの時が近づいています。実が熟するためには、日照りが必要です。収穫の前にはその日照りが最も強くなります。「日照り」は、成長に必要な苦難や試練を意味することばです。試練の時にこそ、私たちは主を待ち望み、主の来たりたもうことが間近に迫っていることを知るべきです。試練は信じる者にとっては最も大きな祝福です。なぜなら、その試練を通して主イエス様をより良く知ることができるからです。
コリント人への手紙第二の4章17節後半を読みましょう。たった一文ですが、当時の信仰者たちの成長の秘訣を非常によく表すことばではないでしょうか。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(2コリント4・17)
パウロは、ご承知のように本当に多くの苦難を受けました。けれども、そのパウロがここで、その試練を「軽い患難」と言っています。どのような試練であろうとも、来るべき栄光に比較するなら、それは取るに足りないものに思えるのです。ところで、ここで言う「重い永遠の栄光」とは、いったい誰に向かって語られているのでしょうか。
その答えは18節に書かれています。それは、「見えるものにではなく、見えないものに目を留める」私たちに対して用意されているのです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4・18)
目に見えるものとは、自分自身の弱点や欠点であり、救われていない家族の状態であり、主を否定する友人たちです。それらに目を留めることなく、目に見えないものに目を留めるよう聖書は励ましています。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、目に見えないものに目を留めて歩んだ男でした。彼については、ローマ人への手紙の中で次のように書かれています。
このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。(口ーマ4・17~18)
これは非常にすばらしい約束です。その前の16節にはこう書いてあります。「世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。『わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。』と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」
主は私たちに一体何を望んでおられるのでしょうか。その答えはエペソ人への手紙に出てきます。
私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4・13)
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5・27)
この主のご目的が達成されるなら、信じる者は生きているまま、一瞬にしてその置かれた苦難や試練の場から天に引き上げられます。よく引用されますが、私たちが念頭に置くべき聖書箇所が次のところです。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生ぎ残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・16~17)
いつまでも主とともにいること、これこそが私たちの願いであり、喜びであり、希望です。初代教会の兄弟姉妹たちが、互いに持っていた心からの願いは、「主イエスよ。来てください」(黙示22・20)という祈りでした。これが、私たちにとっても同じように切なる願いであれば、本当に感謝だと思います。
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