2015年9月2日水曜日

果たされた救いの計画(一)

果たされた救いの計画(一)
2015年9月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

創世記
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

エペソ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

ヨハネ
17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

この前の回で、考えも及ばないほど絶望的なアダムの状態について、考えてまいりました。この状態は、実際は、希望のない絶望的な状態でした。アダムは、いつまでも、悪魔と罪の奴隷でなければならなかったのです。悪魔は、必ず喜んだでしょう。「自分は勝った。神の御心はだめになった。人間は、いつまでも自分の奴隷になった!」と、勝ち誇ったに違いない。

これが、終局なのでしょうか。決して、そうではありません。なぜならば、主なる神の御心は、このどうしようもない、堕落してしまった人間を救うことを思ったからです。しかし、ここで、ひとつの書き表すことのできない難しい問題が出てきました。なぜなら、主なる神は、全く聖なるお方ですから、人間の審判者とならなければなりませんでしたから。

もし主なる神が、罪を罰しないならば、結局、罪と妥協することになります。これは、考えることのできないことです。主はしたがって、罪を罰し、罪人を追放せずにはおられないからです。けれども、主なる神は、全き愛の持ち主であるから、救い主ともなられました。

主ご自身がイエス様の内に、この地上に来てくださり、人間となりました。これは、言い表すことのできないほど、すばらしい逃れ道でした。『主なる神の救いのご計画』、これは今までの我々の題名でした。この計画が果たされなければなりませんでした。そのために、主なる神は人間になられたのです。

第二コリント
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

今日の題名は、今、話したように、「主の計画を完全に果たされた」、あるいは、「果たされた救いの計画」と言うことができます。

三つの点に分けたいと思います。第一番目、苦しんでいる三位一体の神について。第二番目、イエス様の受肉。三番目、イエス様の犠牲の死であります。

まず、苦しんでいる三位一体の神についてです。十字架は、この地上に立てられる前に、天国にあったのではないでしょうか。なぜならば、人間の創造の前に、父なる神の御心は、剣で突き刺されたからであると言えるのではないでしょうか。主なる神は、人間の罪を予想しましたから、三位一体は、考えられないほど苦しんだのです。次の箇所を読むと解ります。

第二コリント
5:19 神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられた。

第一テモテ
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

使徒の働き
20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という表現が、出てきます。この聖句は、イエス様の神聖の証明だけではなく、いわゆる三位一体の統一性でもあります。イエス様は、天地が造られる前から、あらかじめ知られている神の小羊でした。

第一ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
1:20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。

黙示録
13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

別訳を見ると、「世の初めからほふられた小羊」となっています。いわゆる三位一体、すなわち、父なる神、御子なる主イエス様と聖霊は、すばらしい逃れ道を造られました。すなわち、救いを実行されたのです。

イエス様は、次のように、告白することができました。

ヨハネ
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

ルカ
4:1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野にお(られた。)

『聖霊に導かれたイエス様』とあります。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

三位一体の神が与えられた逃れ道というのは、小羊なる主イエス様です。

第二コリント
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ(たのです。)

ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

へブル
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

今、読みましたコリント第二の手紙の中で、創造主について書かれています。このガラテヤ書の中では、創造主ではなくて、救い主について書かれています。そして、前に読んだへブル書の中では、助力者である御霊について書かれています。三位一体の与えられた逃れ道は、十字架につけられたイエス様であり、預言された小羊なる主イエス様です。旧約聖書全体に、この事実が記されています。

創世記
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

アダムの罪を覆うために、債務のない血を流さなければならなかったのです。多分、アダムは、いちばん愛された動物が死ななければならなかったのです。この小羊は、アダムに完全に信頼していました。けれども、アダムの罪を負うために、この解らない信頼している債務のない小羊が、殺されなければならなかったのです。

旧約聖書だけではなく、新約聖書も同じように、小羊の血はいつも罪のために、犠牲の死を意味しています。アダムは、神によって造られた着物を逆らわずに着ました。アダムは、罪を犯した初めの人であったと同時に、信仰によって救われた最初の人だったのではないでしょうか。アダムは、聖霊の悟りによって、神のほふられた小羊のみことばを信じました。その時から、人間は神の御心に従いながら、罪を負うために、いつも小羊を捧げました。

創世記
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

アベルは小羊を捧げました。自分は罪人であることをアベルは、もちろん、分かったし、認めました。けれども、アベルは、すばらしい逃れ道、すなわち、代表者の犠牲の死をも知らせたのです。アベルは、神のみことばを信じて、小羊を捧げました。理解できないけれども、主に従ったのです。

ちょっと長いけれども、出エジプト記の十二章から数節、お読みいたします。非常に大切な書であります。

出エジプト記
12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

12:29 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

過ぎ越しの祭りを信じている人々はみな、小羊を殺して、この流された血潮を信じて、小羊の肉を食べ、受け入れられたのです。主なる神は、これは、救いの道であることを、はっきりと記されたのです。

イスラエルの民は、荒野の旅行でいつも小羊を捧げたのです。創世記から黙示録まで、ひとつのことが、はっきりと記されていました。すなわち、神の備えられた逃れ道は、ほふられた小羊であり、すなわち、十字架につけられた主イエス様です。旧約時代、また、新約時代の信者たちはみな、神の小羊に対する信仰によって、永遠のいのちをもらいました。

信仰とは何でしょう。主なる神のみことばに信頼することと、みことばに基づいている行いというのが信仰です。アダムは、神のことばを信じて、主なる神によって作られた着物を、逆らわずに着ました。アベルは、主なる神のみことばを信じて、自分の罪を覆うために、小羊を殺したのです。もし、私たちが旧約時代、新約時代の信者たちに、「あなたがたは、主なる神との関係はどう?」と尋ねられたら、皆は、「私たちはどうしようもない罪人でした。けれども、主なる神は、恵みによって、信仰によって救われた。私たちは、今、生きておられる、創造者であられる神の子供です!」と言うでしょう。

創世記
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

ここで、「われわれ」という言葉が出てきますし、そして、「主」という言葉が、何回も何回も出てきます。この主なる神とは、もちろん、三位一体の神を意味します。ヘブライ語で、この神は、複数となっています。

この三位一体なる神は、堕落した人間を救うために、逃れ道を作られました。「主なる神は言われた」と、なっていますが、この主というのは、ご自分を啓示される神を意味しています。すなわち、神の啓示とは、いつもイエス様です。

主なる神は、アダムにいのちの木を食べる機会を与えられたのですが、罪の刑罰によって、アダムは、エデンの園から追放されてしまったのです。けれども、もしアダムが、神の備えられた逃れ道を選ぶならば、永遠のいのちの道を開かれたに違いない。主なる神の逃れ道とは、いったい何でしょうか。罪だらけの全人類の代表者、すなわち、神の小羊なるイエス様の犠牲の死は、備えられた逃れ道でした。

けれども、どうして、主なる神は、エデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣とを置いたのでしょうか。なぜなら、悪魔はどうしても、いのちの木への道を遮ろうと思ったからです。このケルビムは、神の聖さと主の愛を象徴します。この主の聖さと主の愛は、罪に堕落した人間に、永遠のいのちを得る道を作ろうとしたのです。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして・・・・全人類が罪を犯したからです。

5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

この前に話したように、罪だらけの全人類の代表者、すなわち、神の小羊なる主イエス様の犠牲の死は、備えられた逃れ道です。けれども、神の御子なるイエス様は、この地上に来られなければ、死ぬことができません。イエス様は、何かを教えるために来たのではない。死ぬため。死ぬためにイエス様は、人間の形をとるようになり、生まれたのです。

この奥義について、イエス様の受肉について、聖書の中で、たくさん書かれています。たとえば、人となることを預言されただけではなく、二番目、イエス様の神聖を啓示されたのであり、そして、三番目、イエス様の人間性を実行されたのです。

イエス様の人となることは、何千年も前に預言されたのです。イエス様は、天地創造の前に、神の小羊として死ぬことを、承諾されたのです。主なる神の人間のわがままに対する答えは、御子なるイエス様の犠牲の死でした。イエス様が人となることは、創世記の三章十五節に、初めて預言されたのではないでしょうか。

創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

こういうふうに、主なる神は蛇に、すなわち、悪魔に言われました。この女から生まれた人は、とくに力強い人であると記されています。この人は、女の末であることも、はっきり書いてあります。これも注意しなければならないでしょう。普通の子供が生まれた時、いつも男の末から生まれると言います。けれども、御子イエス様の場合、自分の誕生のために人間的なお父さんは、必要ではなかったのです。だから女の末、女の子孫と書いてあります。女の末は、悪魔の頭を砕くと預言されました。すなわち、この従順は、悪魔に打ち勝つようになると預言されました。

イエス様の人となることについて、もうすでに、イザヤ書の中にも預言されていたのです。クリスマスの頃、よく引用される箇所です。

イザヤ
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

インマヌエルとは、『神、我々と共にいる』ということです。ここでは一人の人、すなわち、イエス様の内に、二種類のいのちがあると、預言されています。すなわち、造られていない神のいのちと、造られている人間のいのちです。神ご自身が、我ら人間と共になるとあります。主なる神は、人間的な外形をとるようになると、預言されたのです。

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

もしイエス様が、普通の人間だったら、決して、そのような名前を持っていなかったはずです。ミカ書の中で書かれています。主イエス様の結局、生まれた場所について、はっきり預言されたのです。この預言は、イエス様の誕生のもちろん、何百年も前に与えられたのです。

ミカ
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

聖書を読むと、イエス様は、人間的な外形をとった神の御子であったことが、よく分かります。堕落した人類を救うために、創造主なる神は、人間となりました。初めのない、終わりのない、永遠なる神である主イエス様は、神の御子となり、人間となりました。イエス様は、人間的な外形を通しての神の啓示、そのものでした。三位一体の神は、人間の形をとったイエス様と共に働かれました。

今まで、イエス様の神性、人間性を考えてまいりました。最後に、ちょっとだけイエス様の神性について、考えたいと思います。いくつかの証明を考えてみましょうか。

第一番目、生けるまことの神ご自身が、イエス様の神性について、証ししたのです。

マタイ
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

十七章の五節、同じような事実について、書き記されています。

17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

ヨハネの中にも、似ている箇所があります。

ヨハネ
8:18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。

5:37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。

これは、父なる神の証言でした。イエス様ご自身の証しとは、どういうものだったのでしょうか。

ヨハネ
8:14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。」

10:30 わたしと父とは一つです。

『もう分けられない』と、イエス様は、はっきり言われました。

マルコ
3:11 また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。

ルカ
4:41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。

我々にとっても、いちばん大切なのは、イエス様を知ることなのではないでしょうか。イエス様をより良く知りたいと、切に祈り続けるべきなのではないでしょうか。

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