2014年9月28日日曜日

比類なき導き手である主

比類なき導き手である主
2014年9月28日、静岡よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

今日の話とあまり関係ない箇所ですけど、あまりに好きになっちゃったから紹介いたします。歴代誌、下の32章、当時のヒゼキア王様の勧めの言葉です。もちろん、御言葉です。

第二歴代誌
32:7 「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。
32:8 彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。強くあれ

非常にヒゼキアのすばらしい勧めの言葉なのではないでしょうか。今日は、『比類なき導き手である主』について、一緒に考えてみたいと思います。

人間は確かに誰でも色々な問題、悩みや、苦しみに出会うものです。そして多くの場合そのような問題に直面したとき、私たちはいかなる答えをも見出すことができません。何と多くの人々は山のような問題の前になす術を知らないで悩んでいるのではないでしょうか。けれども、主を知る者はほんとうに幸せです。心配しなくても良い、思い煩わなくても良い。何でも出来るお方にすべてをゆだねることができるからです。確かに、しばしば色々な状況の前になすべき術をまったく知らない。どうしたらいいかわからない。これは昔のヤコブの経験でした。

創世記
42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

心の痛みの叫びでした。彼のそれまでの生涯においては自分自身の意志や自分自身の力にたよって行なったことが確かにたくさんありました。彼は長い間、ずるがしこさ、また卑劣さをもって、ただ自分、自分の利益ばかりを考えた男でした。けれども、そのような人を欺く者が欺かれました。主なる神は罪を見過ごしにされない方です。これはヤコブが学ばなければならなかった、確かに厳しい教訓でした。

「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」すなわち、言い換えれば、すべてのものが私に反対している、もうがっかり。ヤコブの場合のようにすべてが失敗に終わり、そのように思えるとき、いったい何がなすべきでありましょうか。いかなる態度が取られるべきなのでしょうか。

先ず最初に私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるにすぎないということ。ヤコブの場合もそうでした。なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけれど、いつか必ず会える。シメオンもまた確かに今いない。けれど必ずいつかまた会うようになる。

我々は人間的な見方をする場合、多くのものを正しく見ることができません。次のように言うでしょう。すべてのものが私に反対している。すべてのものが失敗に終わるでしょう。けれどもほんとうはその反対が真実です。すなわちこれらの事柄は我々に反対しているのじゃなくて、我々のためにある、ということです。けれども、そのことは私たちは今はそのようなものとして認識することができないような性質のものですから、隠された祝福であるとでも言えます。なぜ私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。なぜこんなことが私にふりかかかってくるのでしょう。このように苦しみながら、悩みながら、いくら自問していても、何の解決も見出せないような事柄が実際には数え切れないほどたくさんあります。

そこで次になぜか、あるいは何のためか、という質問について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。答えは三つです。第一番目、支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれる、ということです。主のせいです。二番目、支配したもう主は信ずる者が、もうすでに救われた人々が変えられるために、結局主をよりよく知るためにそれらの多くの事柄が起こるがままにさせておられるということです。そして三番目、支配したもう主は、救われた者がほんとうに主に仕える者として用いられるために、主の御手の中で用いられる器となるために、それらの多くの出来事を起こるがままにほっておかれる。

なぜか、どうしてか、何のためかと考えると、今話したように、言えることは支配したもう主は救われていない人々が救われるために、確かに多くの出来事を起こるがままにさせておられる、ということです。大切なことは人間が真理の認識にいたること、すなわちイエス様に出会うこと、こそです。イエス様に出会わなければすべてはもう意味のないことなのではないでしょうか。ですから次のように言えます。人間は救われ得る前にひとたび失われた状態にならなければなりません。すなわち人間は主なる神が、人間を救って下さる前にまず、自分の失われた状態を認めなければならないのです。物質的なものが満ちあふれ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているため、永遠のものや生ける主について深く考える時間がない。このことが現代の特徴なのではないでしょうか。

多くの人は救い主を持つ必要性についてめくらですけれど、例えばそのことを認めざるを得なくなったとしても依然として逃げようとするのです。その方々は静かになって人生の意義を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。このことこそ、主は多くの不愉快なこと、困難なこと、理解できないことを、我々の上に来らせることの理由です。このような主の導きの目的は、御自身のもとに引き寄せること、また赦しと人生の内容を与えて下さることに他なりません。

聖書の中からちょっと、一つの実例を見てみましょうか。すなわち、放蕩息子という人は、自信に満ちて親の家を去りました。もちろん意識して、彼は自分が選んだ道へ行ったのです。彼は何ものからも束縛されず、自由に自分の人生を楽しもうと思いました。自分自身の道を行きたいと思う者に対しては、主は好きなようにさせます。決して強制なさいません。たとえ最初は、自分のことが望み通りうまく行くように見えたとしても、やがてすべてのことが失敗に向かう時がやって参ります。そしてその結果、突然すべてのものが自分に反対しているように思われるのです。お金はまもなく使い果たして、それまでいわゆる友だちと思われた人々からは、捨て去られることになってしまいました。すべてのものが失敗してしまったようです。ちょっと見てみましょうか。

ルカ伝
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

どうして大飢饉が起こったかと言いますと主のせいなのです。

ルカ伝
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

ユダヤ人にとって一番考えられないものです。豚の肉は食べてはいかん。そして豚の世話をするのは面白くなかった。

ルカ伝
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

けれどこの導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼はただ単に自分自身に立ち帰っただけじゃなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、ほんとうに満ち足りた幸いな人生へ入ることができました。

多くの場合、人生の途上には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。けれども、主はつねに一つの目的を持っておられます。すなわち我々人間をゼロの点にまで低くすること、あるいは破産させること、これが主の取られる方法であり、その限りにおいて、すべての者は自分自身の助けになるものを失い、心から悔い改めることにより、また、主を信ずることにより、主なる神のみもとに行くことが可能となるのです。なぜか、どうしてか、何のためか、と考えると、今見てきたように、支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。主が人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを聖書を通して知ることができます。

なぜか、何のためかについて考えると、今話したように支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられる。二番目の答えは支配したもう主は信ずる者が、もうすでに救われた人々が、変えられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせているのです。しかし、未信者だけでなく、信ずる者もまたいわゆる運命のなすわざを経験するのです。信ずる者もまた同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。なぜ主は信ずる者が厳しい試練に会うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らのきよめのためです。また彼らは主の御姿に変えられるためです。

それを証明するために聖書からちょっと二ヵ所ばかり見てみましょうか。ロマ書8章、前に読みました箇所。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて(・・・・大部分ではない、すべて・・・・)のことを働かせて益として(・・・・損ではない、すべてを益として・・・・)くださることを、私たちは知っています。

パウロは、当時のローマに住んでいる兄弟姉妹はこの動かされない確信を持っていたのです。『私たちは確信する。』

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

我々の人生の途上に横たわっているものすべて、また我々の人生の中に入り込んで来るものすべては、主によって用いられており、したがって無価値なもの、無目的なものはひとつもない。たいせつなことは私たちが新しく造り変えられること、主イエス様に似た者となることなのではないでしょうか。我々の人生の中に「偶然」というものはひとつもない。すべての背後に主が立っておられます。もちろん目的を持って導いて下さるのです。「すべてが益となる」。このことを私たちはつねに新たに毎日覚えるべきなのではないでしょうか。善きことや、最も善きことは、私たちが造り変えられることです。造り変えられること、主の御手によって練られることは確かに痛みを伴うでしょう。すなわちそれは自らが砕かれることなしにはあり得ないことだからです。人はその時失望落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。しかし、このようなことは、自分の思い通りにならない時、目先のことしか考えない時に、起こる事柄です。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

主は御子の姿に似た者となるように、あらかじめ定めておられるのです。主が目指しておられるご目的は、何とすばらしいものでありましょうか。この目的からつねに目を離さないことは、非常にたいせつなのではないでしょうか。

主はご自分に属しておられるものを限りなく愛してくださるから、まさにそのために私たちを懲らしめ教育なさるのです。主の教育は私たちが主のきよさにあずかるように、御自身の身許に引き寄せたく思っておられることです。我々の主は完全であり、主の導きもまた完全です。恐らく私たちはすべてを理解することはできない、挫折してしまう危険に直面し、また自分自身を同情してしまうというような場合もあるのではないでしょうか。どうして、私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。どうして、次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか。どうして、私はこんなにたくさんの困難や、理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。

ヘブル
12:11 すべての懲らしめはその時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になるとこれによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

「後になるとわかる。」ここで大切なことは、その時は一時的に悲しく思われるものですけれど、後になると、それが結果的に幸いになる、ということです。

次に、私たちは次の事柄を覚えましょう。すなわち、私たちは決して主のために実験用モルモットのようなものではない。主がつねに最善のみを考えておられる最愛の子であるということです。たとえ実際に、すべてのことが失敗したとしても、私たちは、主によって愛されているということを知ることができます。まさに主の試練やこらしめこそ、主の愛の証拠です。私たちは今そのことを理解することができなくても、しかし、後になるとそのことを主に感謝し礼拝するようになるに違いない。一番長い詩篇の中から一ヵ所読みます。詩篇119篇の67節、ダビデの告白です。

詩篇
119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

結局、ダビデは苦しんだのは良かった、必要だった、最善だった、と思うようになりました。

なぜか、あるいは、何のためかという問いについて今考えて参りました。前に言いましたように、答えは三つです。第一番目、支配したもう主は、まず罪人が救われるために、それらの多くの出来事を、起こるがままにさせておられるのです。二番目、支配したもう主は、信ずる者が変えられるために、それらの多くの出来事を、起こるがままにさせておられます。三番目の答えは、支配したもう主は、救われた者が、ほんとうに主に仕える者として用いられるために、それらの多くの出来事を、起こるがままにさせておられます。

多くの信者は、実を結ばない木のようなものです。主は、彼らを用いることがおできになりません。その原因はいったい何なのでしょうか。彼らは、主なしでも何とかやれると考えているからです。もちろん、これは知らず知らずやれると考えているのですけれど、彼らは、自分自身の力と自分自身の知恵に依り頼んでいます。そうすると祝福がないはずです。確かに多くの信ずる者は、主のために何かをやりたい、主のために一生懸命に何かをやりたいと思い、また、このことやあのことをしたいと、主に願ったりするのですけれど、結局、彼らはこのことやあのことを自分がしたいため、主を利用しようとしてしまうのです。けれども、実際は主が、主ご自身が人間をお用いになりたいと思っておられます。ご自分の器として、信ずる者を用いたく思っておられるのです。永遠に残る実を結ぶ奉仕は、主のために我々の努力じゃなくて、私たちを通して、主ご自身がなさる御業でなければなりません。これこそ、多くのものが我々に逆らっているように思われたり、主が我々を厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因です。

二つの例を考えてみましょうか。第一番目、ペテロ。自信と独立心が、このペテロの特徴でした。彼は自分自身の能力に、間違った自信を持っていました。ちょっと見てみましょうか。

ルカ伝
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。そしてわたしはそれに反対しません。これはまことに厳しく、辛いことですけれど、あなたが破産して、ほんとうに自分自身に絶望するためには、どうしても必要なことです。ここで注意していただきたいことは、いろいろな人格の順番、あるいは順序ですね。ここの聖句によると、「悪魔」、わたし、すなわち「イエス様」、そしてあなた、すなわち「シモン・ペテロ」、および、あなたの兄弟たち。こういう順番となっています。

主は、ペテロを通して、彼の兄弟たちを強めようと思われました。結局、ペテロを用いられる器として用いたかったのです。けれども、そのためには、ペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために、悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、けれどもその時でも、主は絶えずペテロのために祈って下さいました。したがって、サタンは自分がしたいことを、何でもするということはできません。私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味しています。それですから、主は悪魔とペテロの間にお立ちになられたのです。

ペテロはほんとうにすべて失敗してしまいました。彼は最後の土壇場に立たされていました。そこにはもはや一条の希望の光も射し込まず、すべての望みが消え失せた、全く絶望的な状態が支配しました。しかし、この訓練は「偶然」ではなかった。どうしても必要でした。ペテロはもはや自分の力に依り頼むことができなくなりました。そこから初めて、主はペテロをお用いになることが出来るようになりました。その良い例が、もちろんみなさんご存知です。五旬節です。その時、ペテロを通して、三千人以上の人々が福音を聞いただけでなく、導かれ救われたのです。

もう一つの実例は、パウロなのではないでしょうか。パウロもペテロと同じように深みを通って行きました。すなわち、三日間暗闇の中に生きたのです。そのことをあとになって、パウロは次のように証したのです。

コリント第二の手紙
3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

パウロは正直に告白したのです。

コリント第二の手紙
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

と、書いたのですね。私たちはみな実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち、自分自身を否定し、自分に対して死ぬことです。有名なヨハネ伝12章の24節、みなさん暗記していることばだと思いますけれど、引用します。

ヨハネ伝
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

どこにも多くの重荷に喘いでいる人、いかなる逃れ道をも見出せず、絶望的な状態になっている人がいます。どうして私はこんなにたくさんの困難や問題を経験しなければならないのか、どうして私は失敗してしまうのでしょうか。恐らく、それはまだ救いの確信を持たず、イエス様こそ私のもの、かけがえの無いものと、言うことができないからではないでしょうか。もしかすると、それはあなたの救い主が、あなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。

たいせつなのは救われることだけではなく、主をよりよく知ることです、きよめられることです。あるいは、あなたは今まで主を利用しようとしていたかもしれない。けれども、今や主があなたを主の御手の中で御自身の器として用いたいと思っておられるのではないでしょうか。もう一ヵ所、旧約聖書から読みます。

申命記
8:15 燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ(た。)

道を塞ぐ岩、すなわち障碍物から、あるいは理解できない困難や、私たちが甘受しなければならない心痛、すなわち心の痛み、これらのものから主は水を湧かせようとしておられます。このような経験を通して私たちは主の身許に行くのであり、このような経験を通して、私たちは祝福され得るために祝され、また、いのちを与えられるものです。生ける水は川となって我らより出ずるべし、と書いています。

旧約時代に、主はご自分の民に向かって次のように言わなければならなかったのです。

エレミヤ記
2:13 わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

エレミヤ記
17:13 イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」

わが民!わが民は二つの罪を犯す。一つは湧き水の泉であるわたしを捨てたこと。第二は水をためることの出来ないこわれた水溜を自分たちのために掘ったと。このように主は悔い改めて立ち帰ることを呼ばわれました。

イエス様を知らない人々は、悔い改めて主の身許に立ち帰らなければなりません。救われるためです。イエス様を知るようになった人々は、主のうちにとどまるため、また用いられる道具となるために、悔い改めて立ち帰らなければなりません。イエス様のうちにとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通り良き管となることによって、イエス様は、御自身をあらわすことがお出来になるのです。

今のこの時の試練は、まさに死後の世界に至るための、準備期間のものに他ならない。主は、何物も御手から失いません。主はとこしえにすべてを支配なさるお方です。暗やみの夜にも、困難な涙の時にも、主の御手は私たちを守ってくださいます。失望、落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜならば、主はとこしえに主であられるからです。そして、主は決して過ちを犯しません。私たちが理解できないことがたくさんあるとしても、主は我々にとって最も益となることを考えていて下さるのです。

最後にもう二ヵ所ほど読んで終わります。

ローマ書
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

すばらしいパウロの告白ですね。もう一ヵ所、今度はコリント第二の手紙4章になります。

コリント第二の手紙
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

もう一ヵ所、ハバクク書3章。多くの人々の大好きなことばの一つになっています。

ハバクク書
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

結局、こんなことが全部私の身にふりかかってくるのだ、もう大変だ・・・・ハバククはそう思わなかった。

ハバクク書
3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

毎日の戦いの中でこの断固たる態度をとることができれば、「主は生きておられる、主の御臨在はもう十分です」という態度を取ることができるようになります。

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