主なる神の家を支配する掟
2011年10月18日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
第1ペテロ
2:4
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
今日も、『聖なる神の宮である教会』というテーマを持って、学び続けたいと思います。『主なる神の家を支配している掟』についてです。
主なる神の家を支配している掟とは、いのちと霊性です。霊性とは、御霊の支配であります。教会、イエス様のからだ、神の霊的な宮は、いろいろな面を持っています。そして、私たちは、今まで、四つの違った面を観察してまいりました。
すなわち、一番、大切な面というのは、言うまでもなく、昇天なさった、高く引き上げられたイエス様です。
二番目の面は、父なる神に(より)、教会により、また、イエス様によって、栄光を受けること、栄光が世々かぎりなくあるようにということであります。
三番目の面とは、世界の選ばれた者の解放と、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕なのです。我々は、とりなし人になるべきです。よく、『すべての聖徒たち』という表現を使います。聖書が、もちろん、そう言っているから(です)。意味は、兄弟姉妹に対する批判はイエス様に対する批判です。恐ろしい。
この間、考えた四番目の面は、教会はどこにおいても、イエス様の代理であるべきです。
そして、私たちは今日、この四つの違った面を持って、ひとつの質問を設けたいと思います。すなわち、主なる神の霊的な家を支配している目的は、いったい何でしょうかという点についてであります。主の家が支配している掟とは、今、話したようにいのちと霊性、御霊の支配であります。今、公人(きみと)兄弟がお読みになりました箇所を、もう一回読みます。非常に大切な箇所です。
第1ペテロ
2:4
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
こういうふうにペテロは、当時の主にある兄弟姉妹に書き送ったのです。今、言いましたように、主なる家が支配している掟とは、いのちと霊性であり、御霊の支配であります。おそらく、多くの人は、『霊性』とはいったい何と、思うかもしれない。今、話したように、霊性とは、主なる神、また、御霊の支配を意味します。聖霊の支配は、私たちが聖霊の標準や聖霊の方法と一致すること、ひとつになることを意味します。
私たちは、聖霊の支配のもとにいると、生まれつきの裁きと決定、生まれつきの効用などは使わないで、聖霊とひとつになることは、聖霊の判断、聖霊の効用、聖霊の標準を持っているわけです。もし、私たちが本当の救われた者であったら、私たちは神の家です。この神の家の掟は、今、話したようにいのちと霊性であり、御霊の支配です。
これを考えながら、もう一度、前に学んだ四つの面と特徴を観察してみたいと思います。
まず、大切なのは、最も大切なのは、昇天なさった、高く引き上げられた主イエス様です。イエス様は、父なる神によって、高く引き上げられ、すべての名にまさる名を賜ったと、聖書は言っています。父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座につけたのです。イエス様は、実に最高の権威と栄光を、持っていらっしゃいます。そして、イエス様のからだである教会は、偉大なる任命を持っています。
すなわち、このイエス・キリストの最高の権威と栄光を現すことです。もし、私たちが神の家であるならば、私たちはこの任命を持っています。けど、イエス様の高く引き上げられたことは、ただの真理、単なる教理ではありません。父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座につけられたというのは、単なる使徒信条ではありません。天において現実となったイエス様の支配は、我々の生活においても、現実とならなければなりません。
イエス様が十字架に架かった時、聖霊がそこにおり、イエス様がよみがえられた時、そこに聖霊がおり、また、父なる神の右の座につかれた時も、聖霊がいました。だから、聖霊の働きによってのみ、天において現実となったイエス様の支配は、我々の実際生活においても、現実となることができるのです。
五旬節の日に聖霊が下り、そして、聖霊の証しによって、天において現実となったイエス様の支配は、弟子たちの生活においても、現実となりました。弟子たちの生活の奉仕によって現れた、高く引き上げられたイエス様のいのちと力は、この霊的な現実の証明です。同じように私たちの内に何かが行われなければなりません。私たちは、イエス様の高く引き上げられたことや、支配や権威と等しくならなければなりません。私たちの内に現実とならなければならないのです。
初代教会のあらゆることの始まりとは何だったでしょうか。言うまでもなく、高く引き上げられたイエス様でした。したがって、初代教会はイエス様の栄光を現して、周りの人々に、悪霊でさえも、非常に深い印象を与えたのです。けど、単なる教えや教理ではなく、この霊的な事実が、人々に強い影響を及ぼしたのです。主なる神の家を支配している掟は、単なる教えや教理ではなく、いのちと霊性です。エペソ書6章12節を見ると、パウロは、当時の信じる者に書いたのです。
エペソ
6:12
私たちの格闘は血肉(・・・・すなわち、人間・・・・)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
私たちの戦いは、悪霊に対するものであるとあります。
大切な真理です。悪の霊、また、悪魔の力を滅ぼすことが、問題です。このあいだ、話したのですけど、パロたち、または、他の独裁者、また、両親や親戚、あるいは、友だちの問題のみならず、問題なのは悪の霊の力、悪魔の力です。我々の戦いは結局、悪魔の軍勢に対する戦いです。今日(こんにち)の世界の国々の出来事を見ても解かる、悪魔は何と大きな力を持っているということです。人間の後ろに、環境の後ろに、悪魔の力が働いているのです。また、分裂の霊が働いているのです。
イエス様の高く引き上げられたことは、始めに、この悪の霊に影響を及ぼさなければいけません。なお、これこそが霊性なのです。教会の戦いは、悪魔に対する戦いです。そして、教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすことです。もし、私たちが、この悪の霊に対する戦いのために、肉のものを使ったら災いです。パウロは書いたのです。
第2コリント
10:4
私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
10:5
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
これは、何を意味しているのでしょうか。我々の戦いの武器は、どうしても霊的なものでなければならない。パウロは、コリントの兄弟姉妹たちに、この警告をしたのです。この兄弟姉妹は、この世の知恵、この世の力を求めました。彼らは、肉に属している者でした。なぜなら、彼らは、この世に対する印象を与えるために、戦いの武器として、肉のものを使おうとしたのです。だから、パウロは、力を入れて、このコリントの兄弟姉妹たちに、この世の知恵と力の愚かさについて書いたのです。
この世に打ち勝つために、この世の知恵と力に勝るものが絶対に必要です。肉に属している者に打ち勝つために、戦いの武器として、肉のものに勝る武器が必要です。我々の戦いの武器は、肉のものではなく、主のために、要塞をも破壊するほどの力のあるものであると、パウロは書いたのです。他の言葉を使うと、我々の戦いの武器は、肉のものではなく、霊のものであるということです。
聖書は、はっきり言っています。すなわち、私たちの戦いは、この世の知恵や、この世の力に対する戦いではなく、また、血肉に対するものではなく、諸々の支配と権威と闇の世の主権者、また、天上にいる悪の霊に対する戦いであるとあります。だから、私たちの戦いの武器は、どうしても、徹頭徹尾、霊のものであるべきです。
すなわち、私たちがこの悪の霊、また、悪魔の軍勢に対する優越を持っているという事実が、明らかにならなければなりません。我々の優越とはいったい何でしょうか。私たちのこの世に勝る力なのでしょうか。というのは、イエス様のすべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げられたことなのです。これこそが我々の優越なのです。これは霊のものです。
主なる神の家は、霊的な家です。この神の宮である教会の霊的な目的は、悪の霊に主のすべての支配、権威、権力、権勢のうえに高く引き上げられたことを明らかにすることです。もし、私たちがこの悪の霊に対して、霊的な方法を使わなければ、必ず失敗します。
私たちの戦いは、直接にあるものに対する戦いではない。このものの後ろに隠れている、この目で見えることのできない悪の霊に対する戦いです。これは本当に、絶えず覚えるべきではないでしょうか。我々の戦いは、世界的帝国の後ろに働いている悪の霊の力に対する戦いです。私たちは、この悪の霊を妨げることができるのです。イエス様のすべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げられたことは、悪の霊に、我々を通して報復しなければなりません。これこそが、教会の霊的な目的です。
この世の主権者の後ろに、悪魔の軍勢が働いているけど、私たちの主イエス様は、すべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げられました。そして、私たちは、祈りや証しや霊的ないのちによって、この隠れた悪の霊の力に、イエス様の優越を示さなければいけません。これは言葉の問題、あるいは、教えや教理の問題ではなく、いのちの問題です。
実に、イエス様の家を支配している掟は、いのちと霊性、聖霊の支配であります。主なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名をイエス様に賜った。これが動かすことのできない、すばらしい事実です。父なる神はイエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かれたのです。これも動かすことのできない事実です。けども、天において現実となったイエス様の支配は、我々の生活においても、現実とならなければいけません。そしたら初めて、この悪の霊に対して、私たちによって、イエス様の最高の権威と栄光を現すことができるのです。
主なる神の平安と、イエス様にある満足に対する確信とは、霊なる神の住まいの第二番目の面であります。霊なる神の住まいの目的は、エペソ書1章12節のように神の栄光をほめたたえる者となるためである。
【参考】エペソ
1:12
それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。
すなわち、私たち信者が、神の栄光の場所、安息の場所、また、神の愛された者、主なる神の心にかなう者でなければいけません。初代教会のあらゆることの始まりは、高く引き上げられたイエス様でした。彼らは、この地上、このはっきりとした事実を、確信することができ、そして、大喜びで証しました。したがって、高めたれたイエス様のご栄光を、そんなに現しましたから、悪霊でさえも、非常に深い印象を受けたのです。
主なる神は、御子イエス様によって、絶対的に満足されました。イエス様は、父なる神の安息の場所です。同じように、私たちも霊の家として、父なる神のご満足のために、生きなければいけません。主なる神は、いのちと霊性によってだけ、満足されるのです。
私たち、吉祥寺に集まっている者の際立っている特徴とは、いったい、何なのでしょうか。いのちと霊性なのでしょうか。そうしたら、初めて父なる神に、教会によって、栄光が世々限りなくあるようにと、なります。絶えず覚えるべきことです。すなわち、主の栄光が問題です。聖書を読むと、この事実を誰でも解かるはずです。たとえば、ラザロのよみがえりもそうだったんです。よく知られている箇所ですけれど、ラザロについてヨハネ伝11章、詳しく書いています。
ヨハネ
11:4
・・・この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。
けど、疑問と不信仰によって、イエス様は、長い間、妨げられました。最後に、イエス様は大声で、「ラザロよ、出てきなさい」と、呼ばれました。すると、死人は手足を布で巻かれ、顔も覆いでつつまれたたままで出てきたと、あります。これは、霊的な戦いでした。イエス様の内にあったいのちは、死より勝る力でした。これは、主なる神の栄光のためだったのです。主は、いつも死より強い力によって、栄光をお受けになるのです。聖書は、アブラハムの召されたことについて書いてあります。一文章です。使徒行伝7章2節、「栄光の神が彼に現われた」とあります。
もし、私たちが、この召されたことについて考えると、次のことが解かるはずです。すなわち、神はアブラハムに、「わたしは、あなたを召した。しかし、あなたの満足のためではなく、わたしの栄光と満足のためである」と、主は、言われました。そして、アブラハムの生活に対する主の取り扱いは、いつも、主に、死とよみがえりによって、栄光が世々限りなくあるようにとなったのです。アブラハムは、主の導きによって、自分の関係、望み、希望、財産と目に見えることを全部、捨てなければならなかったんです。これは、結局、死でした。けど、その後で、主は、新しい啓示を与えられ、新しい契約を結ばれました。アブラハムの生涯の終わりに、主は言われました。大変なことでした。
創世記(口語訳)
22:2
・・・あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい。
意味は『殺せ。』これは、何を意味しているのでしょうか。もし、アブラハムが主に従えば、主から与えられた約束と望みを捨てることではないでしょうか。もし、イサクが死んだら、主なる神の忠実、主なる神の約束と契約などは、全部、ダメになってしまうのではないでしょうか。ヘブル人への手紙の中で、このアブラハムの態度について、次のように説明されています。
ヘブル(口語訳)
11:19
彼(アブラハム)は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。
アブラハムは、この固い確信を持っていました。そして、アブラハムは、イサクの出来事によって、よみがえりを経験しました。よみがえりによって、主はいつも、栄光をお受けになるのです。しかし、『』な』しによみがえりはありえません。だから、アブラハムは何回も、何回も、死、苦しみ、困難を経験しなければならなかったのです。
いかにして、主は栄光をお受けになるのでしょう。いかにして、主なる神は満足されたのでしょう。よみがえりのいのちを現すキリスト者によってだけ、主は、栄光をお受けになるのです。けど、『死』無しのよみがえりは、ばかげたことです。だから、死の様と等しくなることによってのみ、これは可能なのです。すなわち、十字架につけられている者によってのみ、主は栄光をお受けになります。イエス様の場合も、同じだったのではないでしょうか。イエス様の死とよみがえりによって、父なる神が満足されました。主は、栄光をお受けになりました。イエス様が、死に完全に打ち勝ったことの証明は、高く引き上げられたことです。
イエス様のからだである教会の歴史を見ると、連続的な死とよみがえりだけがあったのです。そして、各々(おのおの)のよみがえりによって、主に栄光が世々限りなく、ありました。どうでしょうか、私たちは一度、主なる神の御前に、自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志(こころざ)すこと、自分の目的などは全部、ダメだということをはっきり示したでしょうか。そして、私たちは、本当は暗闇に入って苦しんだのでしょうか。けどそれは終わりではなかったのです。よみがえりがついて来ました。主が新しい啓示を、お与えになったのです。こういうふうに、主は栄光をお受けになりました。
最後の敵である死とは、教会の内に、また、からだなる教会によって、イエス様のからだによって、滅ぼされますけど、どうして、教会の内に、また、教会によって滅ぼされるのでしょうか。なぜなら、イエス様は、すでに、死に対する勝利を得たから。そして、この勝利を得た主は、今日(こんにち)、ご自分の教会の内に住んでいらっしゃいますから、勝利を得た頭(かしら)であるイエス様は、ご自分のからだによって、すなわち、教会によって、最後の敵を滅ぼすということが、聖書にはっきりと記されています。こういうふうに、父なる神に、教会により、また、イエス様によって、栄光が限りなくあるようになります。
救われた信じる者は、神の家です。この霊なる家の目的は、主の栄光をほめたたえることです。私たちは、霊なる家として、主のご満足のために、生きなければなりません。さて、私たちは、霊的な死を経験すると、確信しながら、『これは終わりではない、これこそが主の栄光のためである』と、堅く信じるべきです。これは、決して簡単なことではありません。けど、こういうふうに父なる神は、栄光をお受けになります。
もう一度、いかにして、主なる神は栄光をお受けになるのでしょうか。よみがえりのいのちをあらわす兄弟姉妹によってだけ、これは可能です。よみがえりなしに、霊性はあり得ないことです。だから、絶対に必要なことは、死なのです。十字架につけられている者によってのみ、主は、満足され栄光をお受けになります。
聖なる神の宮である教会の第三の面は、世界の選ばれた者の解放と、すべての聖徒たちに対する奉仕です。前に話したように、大切なのは、すべての聖徒たち、兄弟姉妹に対する愛のない態度とは、悪魔の喜びになります。悪魔は、唯一つの目的を持っています。霊なる神の住まいをめちゃくちゃにすることです。主のいのちを滅ぼすという目的です。この悪魔の攻撃によって、何と多くの信者は、霊的な暗闇に堕ちたでしょう。よみがえりのいのちと、主の支配は、悪魔の攻撃の目標です。
ひとつの厳しい質問があるのです。すなわち、私たちはこの恐るべき戦いの内に、すべての信じる者の解放のために、努めているのでしょうか。私たち一人ひとりが、すべての信者たちに対する奉仕をするのでしょうか。
イエス様のからだなる教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすだけではなく、すべての信じる者の解放のためにとりなすことです。私たちは、この真理を信じるでしょうか。これは問題ではなく、大切なのは、この事実が我々の内に現実となったかということではないでしょうか。私たちは、すべての聖徒のために、祈らなくてはいけません。とりなし人となるためにではなく、私たちはみな、とりなし人だから祈らなくてはならない。なぜなら、私たちは、主のものとして、霊なる神の家に属しているから。
とりなしの奉仕が好きかどうかは問題ではない。霊なる神の住まいの際立っている特徴は、とりなしの奉仕です。もっとも大切な奉仕です。神の子の性質は、とりなしの奉仕によって現れます。としなしの奉仕は、自発的なはずです。多くの人々は、次のように言うでしょう。「私は主のからだの肢体です。そして、主イエス様のからだの任命は、とりなしの奉仕です。だから賛成します。この真理を信じ、述べ伝えます。」けど、この教会に対する真理と、兄弟姉妹は、分けることができません。
大祭司であるイエス様に属している肢体は、みなとりなし人だから祈ります。もし、祈らなければ、何かが根本的に間違っています。どうでしょうか。私たちの生活の目的とは、いったい何でしょう。すべての信じる者が解放され、用いられるようにと、祈り続けているのでしょうか。これを好きかどうかは問題ではない。霊なる神の住まいは、そのために存在している。
我々の生活の目的とはいったい何でしょう。すべての兄弟姉妹の解放、すべての救われた人々のいのちに対する奉仕でしょうか。集会へ来て、他の信者に会うとあなたの臨在は、すべての聖徒たちのいのちに対する奉仕なのでしょうか。それとも、選ばれた者は、あなたによって責められているのでしょうか。どちらでしょうか。私たちは今、集会へ行くことの大切さを解かっています。お客様として来て、また、中途半端な立場を取ることができません。集会へ来ると、私たちは、すべての聖徒たちに奉仕しているのでしょうか。それとも邪魔をする者なのでしょうか。
集会に出席したくない兄弟姉妹は、すべての聖徒たちに対する邪魔者です。聖徒たちとの交わりを欲しくない兄弟姉妹は、ちょっと気の毒です。あわれむべき存在なのではないでしょうか。これを考えると、兄弟姉妹に対する無関心も、恥ずかしくないでしょうか。真理や教えや教理は問題ではなく、これはいのちと御霊の支配が問題です。
主なる神の家である教会が支配している掟は、今まで何回も言いましたように、真(まこと)のいのちと御霊の支配です。そして、「あなた方は、神の家なのである」と、パウロは、はっきり書いたのです。本当は、パウロよりも聖霊の言われたことです。兄弟姉妹の一人ひとりの存在は、他の聖徒のために、いのちを意味しているのでしょうか。主から備えられた器として、すべての聖徒たちのいのちに対して、奉仕しているのでしょうか。よみがえりと御霊の支配によってだけ、我々はすべての聖徒たちに、奉仕することができるのです。どこにおいても教会は、主の代理、代表であるべきです。
教会はイエス様ご自身です。けども、イエス様だけではなく、あなたの内に住んでいる、私たちに住んでいるイエス様です。どこの場所でも信者たちは、イエス様を共同的に表すべきです。教会全体がイエス様を表さなければなりません。マタイ伝18章を見ると、同じ事実がはっきり書かれています。ちょっと見てみましょうか。
マタイ
18:15
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
もし、あなたの兄弟が罪を犯すなら、兄弟を忠告しなさい。これは、三回やってください。そして、兄弟が聞きたくないときは、教会に申しでなさい。もし、教会の言うことを聞かないなら、その人を異邦人、または、取税人と同様に扱いなさい。すなわち、教会から捨てなさい、捨ててください。もし、あなたがたが、これをやると、主ご自身がこれをやるのです。なぜなら、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と、主ご自身が言われましたから。
というのは、教会は独立して行いませんでした。教会の判断は、主イエス様の判断であり、教会の決定は、イエス様の決定なのです。もちろん、この教会は、主イエス様の名によって集っている、または、生まれ変わった人々です。どこにおいても教会は、イエス様の代理、忠実であるべきです。教会はひとつのからだですから、少なくても、二人の信者が必要です。教会は、共同的なものですから、教会の目的は、イエス様を共同的に表すことです。これは決して、組織的な、形式的なものではありません。なぜなら、教会は、霊的なものだからです。教会は聖霊の支配のもとにいるのです。
イエス様のからだなる教会の指導者は、決して、人間ではなく、聖霊です。教会は、ひたすらの祈りによって、聖霊の導きを求めなければなりません。教会は、全部を聖霊の導きにゆだねることによって、霊的になるのです。だから、教会の事業は徹頭徹尾、霊的であるべきです。教会は、儀式的な事業とは正反対です。
もし、教会の内に問題が起こると、どういうふうに解決したらいいのでしょうか。誰かが提案をして、そして、霊的な人はすぐ解かるはずです。すなわち、これは死を意味します。もし、私たちがこの提案に従うと、恐るべき結果をみるでしょう。私たちは、この提案に従う自由を持っていません。霊的な人の内に支配している聖霊が、『これは主の道ではない、この提案に従うと敗北に終わる、これは主の道ではない』と、聖霊が言われるのです。それとも、『はい、これは主の道です』と、言うのです。
みなさん、これは教会の生活の根本なのではないでしょうか。
こういうふうに、教会はどこにおいても、イエス様を表しています。主なる神の御心の表現なのです。実に、主の家を支配している掟は、いのちと御霊の支配です。このいのちは、共同的な生活です。共同的な生活は、霊的であり、本当のいのちです。私たちの主イエスとの交わりは、いのちの交わりです。もう一回、前に読んでもらいました箇所、ペテロ第一の手紙、2章5節を読んでみます。『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ(口語訳)』と、あります。私たち、兄弟姉妹は、イエス様と同じいのちを持っています。イエス様は、尊(たっと)い生ける石であり、私たちはそれぞれ、生ける石となって、霊の家に築き上げられた。この関係は、霊的な関係なのです。
同じいのちによって、共同的な表現があるのです。この共同的な表現の根本は、結局、いのちです。いろいろな組合や社会やクラブがあります。そして、私たちは、この組合やクラブの目的に賛成して、ひとつの会員になることが、もちろんできます。けど、会員になることによって、同じいのちをもらわないということは明らかです。
イエス様のからだなる教会の場合は、そうなんです。主に出会った人々は、みな同じく、永遠のいのちを持っています。頭である、かしらであるイエス様との生き生きとした結びつきがあるのです。このようないのちによって結ばれた兄弟姉妹は、どこにおいてもイエス様の代理であり、イエス様の表現であります。というのは、ただイエス様について真理を述べ伝えるだけではなく、イエス様ご自身がからだなる教会の中心に立ちたもうことは、偉大なる事実です。
『二三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり』と、イエス様は約束してくださいました。二人、また、三人の本当の信者が集まるところにイエス様ご自身が、そこにいるということは、実にすばらしい事実なのではないでしょうか。これは単なる請求権ではなく、たとえば、カトリック教会は、教会という人間によって造られた建物があるところには、キリストがおり・・・などと宣言します。けど、これは大間違いです。なぜなら、生き生きとした意志、霊的な意志が必要ですから、すなわち、本当に聖霊とみことばによって新しく生まれ変わった人たちが必要です。その人たちだけが、イエス様のからだである教会です。そして、このような救われた兄弟姉妹が集ると、知らない人が入るとその人は、事実、神ご自身が、あなた方の内にいると叫ばざるを得ません。
どうでしょうか。未信者が集会に参りますと、その人は神がおられると、主を拝むようになるのでしょうか。初代教会の場合はそうだったんですね。ちょっと、一箇所、見てみましょうか。
第1コリント
14:24
しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25
心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
これは我々の願いなのでしょうか。人々が顔を伏せるかどうかが、もちろん、問題ではないけど、この人たちは、自分の持っている先入観や、疑いや、不安や、隠し事などを、捨てるかどうかが問題です。未信者は、「まことに神があなたがたの内にいます」という強い印象を受けなければなりません。けど、もしイエス様が我々の全生涯を支配をもっていなければ、これはもちろん、全く不可能です。
神はイエス様を高く上げられ、すべての名ににまさる名をイエス様に賜った。この動くことのできない事実は、我々の内に現実とならなければいけません。自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すこと、自分の目的などを、捨てることなしに、主は、私たちの生活の支配を持つことができません。また、教会はどこにおいても、主の代理となることができません。
本当に静かにして、主の御前に出て、そして、自分の生活は、イエス様の最高の権威を表し、また、主の栄光をほめたたえるようになり、そして、私たちの生活が、すべての聖徒たちのための祈りになれば、本当にありがたいと思います。
おわり
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